昔人有言、貨色
功利之習、淪肌
浹髄。」此語警
人尤深矣、味淪
字浹字、稟生
之時、既淪浹了
吾体、亦非外
鑠者。故欲尽
孝于父母者、非
致良知以洗肌
之淪滌髄之浹
則往往必貽父母
之羞矣。雖貽
父母之羞則能養
其口体服其労、
猶謂之不孝而
可也。
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ならはし はだへ し めぐ
『貨色功利の習、肌に淪み髄に浹る』と昔の人は言ッたが、
りん せう
此の語の人を警むる実に剴切なるものがある。淪の字浹の字
共に「普く浸み込む」を意味する、即ち生を稟くる時、既に
しみわた ○ ○ ○ ○
貨色功利の習が共に体に淪浹つて居るので、決して外物の誘
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
惑によッて然るのでは無いとの意である。別な言葉で言へば、
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
「人は何事を解するにも物欲を本位とする傾向が生れた時既
○ ○ ○ ○ ○ ○
に生じて居る」のである。従ッて孝を父母に尽する言ッても、
単に口体を養ひ、其の労に服するのみを以て孝行と心得るや
うなことにもなる。既に、真に孝を父母に尽さうと思ふ者は、
はだへ しみこ ならはし
先づ以て良知を致して、其の肌の淪んで居る貨色の習を洗ひ
ずゐ めぐ ならはし すゝ
落し、髄に浹ッて居る功利の慣を滌ぎ去らんければならぬ。
でないと、往々にして、孝を父母に尽さうと思ひながら、反ッ
はぢ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
て父母の羞を後世に貽すことゝなる。若し、良知を致さずし
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ たとひ ○ ○ ○ ○
て、父母の羞を後世に貽すが如きことあらば、仮令能く其の
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
口体を養ひ、其の労に服するあるも、其は猶ほ不孝の子と謂ッ
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
て可なりである。
中斎謂へらく、孝は、父母の遺体なる此の身此の心を護
り養ひ育て大にし強くし清くし高くするにある。故に口
体の養の如きは、孝の一小部分に過ぎぬ、「父母の羞を
貽さざるの努力」これが孝の要部であると。故を以て此
の言をなしたのである。大乗的の孝として吾人の大に賛
する所である。
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『洗心洞箚記』
(本文)その19
剴切
(がいせつ)
ぴったりあて
はまること
稟(う)くる
貽(のこ)す
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