Я[大塩の乱 資料館]Я
2015.1.25

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『通俗洗心洞箚記』
その25

大塩中斎著 下中芳岳(1878-1961)訳

内外出版協会 1913

◇禁転載◇

上巻 (21) 二一 太虚霊明のみ

管理人註

灯燭良知 似矣。而灯燭有 起滅、良知無起 滅也。以日月良知近矣。而 日月有晦蝕、良 知無晦蝕也。然 則以何喩之。無 喩者。夫良知唯 是太虚霊明而已矣。 然而有時以灯燭之、亦無不可。 有時以日月 之、亦無不可。 開導教誨於中人以 下之方法、不        モシ 以不此也。如 直以太虚霊明 之、則与魏文侯 聴古楽同矣、唯 恐臥。唯恐臥故 不耳存心 也。其極至於世無 善人。為人師者、 宜心於教法矣。

 良知とは何であるか、此の説明は頗るむつかしい。或る人 は、其の是非、善悪、正邪を明に照らすよりして良知は灯燭                        すべ のやうだと言ふ。なるほど似た処がある。けれども全てを尽 しては居らぬ。灯燭には起滅があるけれど、良知には起滅が 無い。或る人は又、其の烱々として心中に輝けるよりして良       やう 知はに日月の如だと言ふ。なるほど近い喩へだ。けれども矢  すべ 張全てを尽しては居らぬ。日月には時に晦蝕といふことがあ るけれども、良知には晦蝕といふことがない。然らば何を以 て之に喩へたらよからうか。喩へるものが無い。良知は唯是 れ太虚霊明なる実在だと言ふ外は無い。けれども、時として                      わるく は、之を喩ふるに灯燭を以てしても亦必ずしも不可は無い。 又、時としては、之を喩ふるに日月を以てしても亦必ずしも 不可は無い。悟りのよくない中人以下の人達を開導教誨する の方法としては又已を得ない。仮令、其の全部の意味を表現 せぬとしても、若し其れで大体の意味が呑込めるなら、満足 する外は無い。然るに若し、良知は何等喩ふべきものが無い からとて、直に太虚霊明そのものに就いて説明しようとする    (一)         たとへ ならば魏の文侯が古楽を聴いた喩の如く、其の説明に何の興 味も起らぬが故に、唯、眠ッてはならぬ、眠ッてはならぬと                      すこし 眼を見張ッて居るばかりで、声は耳に入ッても些も心に留ま らない。従ッて其の極、世に良知をおぼろげに解する人が殆       しま ど無くなッて了ふ。されば、人の師となるもの、宜しく此の 呼吸を考へて、所謂「人を見て法を説く」の教法に心を用ふ べきである。

    喩は其の本義の総てを表現し得るものでは無いが、さり とて喩を用ひないでは、抽象的の思想は到底他人に伝ふ ることが出来ない。されば、古今の大なる思想家は、常 に巧なる比喩を用ひて宇宙の真理を伝へようとしたので ある。中斎の此の言、実に教育上至言であるといふべき であらう。 (一)名は斯、周の威烈王の命によりて侯となりたる人、   四方の賢士多く之に帰したりといふ。

『洗心洞箚記』
(本文)その24
 


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