拘而謂心在身
内者、十目十指
之義、一生不能
了之。悟而識身
在心内者、意欲
機動時、非特十
目十指焉、蓋以
為天下之所視
指。何者、以身
外之虚皆吾心、而
万物往来起伏之地
故也。
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なづ おも
形の拘む結果、心は身の内に裏まれてあるのだと謂うて居
いふところ (一)
るものは、大学に所謂の十目十指の真義を一生悟ることが出
来ぬ。形に拘まないで、悟り得て身の心内にあるを識るもの
は、我が心中に我欲の念の動いた時にのみ特に十目十指の義
を考へ得るのみならず、更に其の意味を推し拡めて、天下の
視指する所、即ち社会の与論、世界の耳目、すべて是れ十目
十指の理に本づくと考へら得るやうになる。何となれば、一
たび太虚の理に悟り到らば、身外の虚は皆吾が心、而して其
は万物往来起伏の地であることが明になるからである。
(一)大学に「十目十指の視る所、十指の指す所、それ
厳なるかな。」の語がある。言ふ意は、如何に幽独
の場所にありても、天知る、地知る、我が身知るで、
善悪正邪は蔽ふことが出来ぬの意。
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『洗心洞箚記』
(本文)その25
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