孔子自称 素王 則
不可、而後人称
素王 則無 不可
也。左丘明自称
素臣 則不可、而
後人称 素臣 則無
不可 也。春秋之
コレ
経、三代之典刑、
而黜 陟善悪 之縄
尺也。左氏之伝、
コレ
上下之行迹、而照
燭妖魔 之業鏡也。
只其縄尺也。治 万
世天下 焉、非 素
王 而何。只其業鏡
也。公 当時邪正
焉、非 素臣 而何。
且、如無 伝、則自
天子諸侯 至 士大
夫 、邪心醜態、庶
乎 滅無 聞矣。然
則妖魔各逃 照、而
来世之人亦不 知 懲。
故学者誠心読 其伝
者、不 得 不 起 羞
悪之心 。然以 邪心
俗慮 読 之、則己反
化 妖魔 、而業鏡為
其所 垢触 、失 左
氏之本旨 益遠矣。
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(一) い
孔子にして若し自ら素王と称するならば其れは可けない。
よ
けれども、後人が、其の人格を尊んで素王と称んだからとて
(二)
何の不都合もない。左丘明が自ら素臣と称するならば其れは
い
可けない。けれども、後人が其の事業を偉なりとして素臣と
よ
称んだからとて何の不都合も無い。孔子によッて作られたと
(三) ちゆつちよく
いふ春秋の経、三代の典刑は正しく善悪を黜陟するの縄尺で
(四)
ある。左氏の伝、上下の行迹は正しく妖魔を照燭するの業鏡
である。斯の如く、善悪を黜陟するの縄尺となッて、万世の
下、よく天下を安からしむる、素王でなくて何であらう。か
あきらか
くの如く妖魔を照燭するの業鏡となッて当時の邪正を公にす
る、素臣でなくて何であらう。且や、史論(春秋)の存する
も
ありとも、如し、左氏の伝なくんば、天子諸侯より士大夫に
至る、其等の邪心醜態、終に 滅して聞く由もなかッたであ
らうに。然らば、妖魔各々業鏡の照破を逃れて、後世の人亦
懲るゝを知らなかッたであらうに。左氏の功や寔に偉なりと
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いふべきである。故に学に志す徒は、誠心以て此の伝を読め、
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然らば自ら羞悪の心を起さざるを得ないであらう。而も邪心
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俗慮を以て之を読まば、己れに反ッて妖魔と化し去り、而て
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業鏡其れが為に垢触せられ、左氏の伝せし本旨を失ふ益々遠
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きに至るであらう。
薬になるものも心一つで毒になる。伝記を読むものゝ心
すべき所。
(一)王者の徳を身にそなへて、而も其の位にあらぬも
のを素王といふ。
(二)相公良弼の才学徳望ありて、而も其の地位にあら
ざるものを素臣といふ。
(三)縄尺は標準の意、即ち善悪判断の標準。
(四)悪臣の心の中を照し出す鏡。業鏡は道理の鏡とい
ふほどの意。
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『洗心洞箚記』
(本文)その28
寔(まこと)
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