Я[大塩の乱 資料館]Я
2015.1.30

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『通俗洗心洞箚記』
その30

大塩中斎著 下中芳岳(1878-1961)訳

内外出版協会 1913

◇禁転載◇

上巻 (26) 二六 照魔の業鏡

管理人註

孔子自称素王則 不可、而後人称 素王則無不可 也。左丘明自称 素臣則不可、而 後人称素臣則無 不可也。春秋之       コレ 経、三代之典刑、 而黜陟善悪之縄 尺也。左氏之伝、       コレ 上下之行迹、而照 燭妖魔之業鏡也。 只其縄尺也。治万 世天下焉、非素 王而何。只其業鏡 也。公当時邪正 焉、非素臣而何。 且、如無伝、則自 天子諸侯士大 夫、邪心醜態、庶滅無聞矣。然 則妖魔各逃照、而 来世之人亦不懲。 故学者誠心読其伝 者、不羞 悪之心。然以邪心 俗慮之、則己反 化妖魔、而業鏡為 其所垢触、失左 氏之本旨益遠矣。

          (一)            孔子にして若し自ら素王と称するならば其れは可けない。                      けれども、後人が、其の人格を尊んで素王と称んだからとて                (二) 何の不都合もない。左丘明が自ら素臣と称するならば其れは 可けない。けれども、後人が其の事業を偉なりとして素臣と 称んだからとて何の不都合も無い。孔子によッて作られたと                 (三) ちゆつちよく いふ春秋の経、三代の典刑は正しく善悪を黜陟するの縄尺で                  (四) ある。左氏の伝、上下の行迹は正しく妖魔を照燭するの業鏡 である。斯の如く、善悪を黜陟するの縄尺となッて、万世の 下、よく天下を安からしむる、素王でなくて何であらう。か                         あきらか くの如く妖魔を照燭するの業鏡となッて当時の邪正を公にす る、素臣でなくて何であらう。且や、史論(春秋)の存する       ありとも、如し、左氏の伝なくんば、天子諸侯より士大夫に 至る、其等の邪心醜態、終に滅して聞く由もなかッたであ らうに。然らば、妖魔各々業鏡の照破を逃れて、後世の人亦 懲るゝを知らなかッたであらうに。左氏の功や寔に偉なりと                   ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ いふべきである。故に学に志す徒は、誠心以て此の伝を読め、 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○   ○ ○ ○ ○ 然らば自ら羞悪の心を起さざるを得ないであらう。而も邪心 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○   ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○   ○ ○ 俗慮を以て之を読まば、己れに反ッて妖魔と化し去り、而て ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○   ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 業鏡其れが為に垢触せられ、左氏の伝せし本旨を失ふ益々遠 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ きに至るであらう。

    薬になるものも心一つで毒になる。伝記を読むものゝ心 すべき所。 (一)王者の徳を身にそなへて、而も其の位にあらぬも   のを素王といふ。 (二)相公良弼の才学徳望ありて、而も其の地位にあら   ざるものを素臣といふ。 (三)縄尺は標準の意、即ち善悪判断の標準。 (四)悪臣の心の中を照し出す鏡。業鏡は道理の鏡とい   ふほどの意。

『洗心洞箚記』
(本文)その28






























寔(まこと)
 


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