慶雲鳴雷凄風和気、
皆是太虚之象、而
不常有、然有時
出焉。喜怒哀楽、
皆是人心之情、而
不常有、然有時
起焉。故喜怒哀楽、
便是天之慶雲鳴雷
凄風和気、而慶雲
鳴雷凄風和気、便
是人之喜怒哀楽也。
元是不二矣。然而
人不帰乎太虚、
而喜怒哀楽、任情
起減、則亡徳喪
身之基也。故君子
慎独帰乎太虚、
惟是之務。是以当
喜怒哀楽之境、尤
忍而不軽起焉。
如吾者則反之。
宜慎也。
|
慶雲、鳴雷、凄風、和気、皆是れ太虚の象である。而して
此は常住不変の存在では無くて時あッて現はるゝ。
喜、怒、哀、楽、是れ皆人心の情である。而して此れ亦常
住不変の存在では無くて、時あッて起り来る。
故に、人の喜、怒、哀、楽は、取りも直さず天の慶雲、鳴
やが
雷、凄風、和気、天の慶雲、鳴雷、凄風、和気も亦即て人の
喜、怒、哀、楽、もと是れ二つのものでは無い。
けれども、人にして其の心太虚に帰るを努むるなく、喜、
うしな うしな
怒、哀、楽、情に任せて起滅するあらば、徳を亡ひ身を喪ふ
の基となる。故に君子は独りを慎みて以て太虚に帰るを唯是
れ之を務むる。さればこそ、喜、怒、哀、楽の境に臨んで、
わし
忍耐して以て軽々しく行動せぬのである。予は、性来、情に
激し易く、為に君子の忍耐して以て情を制せんとするに反す
る傾向がある。慎まんければならぬ。
|
『洗心洞箚記』
(本文)その62
|