天不特在上蒼蒼
太虚已也、雖石
間虚、竹中虚、
亦天也。況老子
所云谷神乎。谷
神者、人心也。故
人心之妙与天同、
於聖人可験矣、
常人則失虚、焉
足語之哉。
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(一) あを/\ おほそら
天といふのは、特に上にあッて蒼々として居る太虚ばかり
すきま うつろ
ではない。石の虚も竹の虚も亦天である。老子は曾て、谷の
(二) よ
物なきに響を伝ふるよりして之を「谷神」と称んで、霊ある
ものの如く考へたが、此の谷神の如きも天である。と同時に
人の精神と同じく虚である。故に、人心の霊妙、天と本質を
同じうすること、其の実例を聖人に見ることが出来る。常人
は虚を失ふが故に、其の心が、天と通ずるなどとは勿論言へ
ぬけれど。
(一)天空は吾人をして虚大無辺、公明正大の感を起さ
あが
しむるもの故、自然天を人格化して之を崇むる思想
が起ッた。東洋には此の拝天思想が頗る発達した。
中斎は斯く、神化せられた天空を更に、空間的に想
化した。かくて、宇宙一切の空間は『天』である、
人身内部の空間また天である、故に人心はやがて太
虚(一切の空間)と相通じて居ると考ふるに至ッ
た。今日から考へれば、物理学的にも哲学的にも頗
る附会の論たるを免れないけれども、而も、之を
「象徴的の見方」として考ふる時、そこに多大の興
趣と意義とを見出すことが出来る。
(二)老子は道を具体的に象徴して「谷神」と言ッた。
谷の中央には更に谷なし、而も総ての響を伝へる、
即ち虚無の道であると。
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『洗心洞箚記』
(本文)その2
谷神
(こくしん)
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