躯殻外之虚、便
是天也。天者吾
心也、心葆含
万有、於是焉
可悟矣。故有
血気者至草木
瓦石、視其
死、視其摧
折、視其毀
壊、則令感
傷吾心、以
本為心中物故
也、若先有慾
而塞心、則心
非虚。非虚
則頑然一小物、
而非天体也。
便与骨肉既
分隔了。何況
其他耶。名之
以小人不亦
理乎。
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も の ほか きよ
躯殻の外の虚は便ち天、我が心は躯殻の外の虚、天は取り
すべてのもの つゝ
も直さず吾が心の本体である。従ッて天が 万物 を裏んで居
やう あらゆるもの はうがん よ
るが如に心も亦『万有 を葆含する』と言ッて可い。其の証拠
には、人間は言ふに及ばず、禽獣虫魚などの死ぬのを見ても、
くだ つちくれ
草木の類が摧き折らるゝのを見ても、さては、石や瓦や塊の
たぐひ こぼ やぶ
類の毀ち壊らるゝのを見ても、何とは無しに一種言ふには言
あはれ
はれぬ物の情を感ぜずには居られない。といふのは、是等の
も と うち
ものは、本来我が心の中のものだからである。しかし斯様に
あはれ ありのまゝ すがた
万物の死滅に対して物の情を感ずるのは、我が心の本来の相
まるで あらは
が全然表現れた時、即ち我が心が虚にかへッた時のことで、
きざ ○ ○ありのまゝ○ すがた○ ○ ○ ○ ○ ○
若し一点欲念の心に兆すあッて、其の本然の相を塞ぐならば、
心は虚にかへることが出来ぬ故に、決して前に述べたがやう
あはれ
に物の情を感ずるには至らない。かく我が心が虚にかへるこ
ありのまゝ すがた
とが出来ぬならば、即ち欲念を以て、本然の相を塞ぐならば、
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
其の心や実に頑然たる一小物、欲の塊で、到底天と相通ずる
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ありのまゝ すがた
ことは出来ない。かの我欲に囚はれて我が心の本然の相を見
は しう
失ッた人達は、見よ、己が我欲の為めに骨肉相食むの醜を演
へだた
じつゝあるではないか。骨肉の間に於てすら既に斯様に分隔
をは あひわ
り了る、どうして其の他し相和することが出来ようぞ、どう
して万物と共鳴し得ようぞ、どうして天に通ずることが出来
ようぞ。彼等の世界は実に彼自身の肉体以外に出づることが
よ せうじん ゆゑ
出来ない、是を名ぶに「小人」を以てする亦理ありと言ふべ
きでは無いか。
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『洗心洞箚記』
(本文)その3
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