Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.12.25

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『通俗洗心洞箚記』
その6

大塩中斎著 下中芳岳(1878-1961)訳

内外出版協会 1913

◇禁転載◇

上巻 (2) 二 頑然たる一小物

管理人註

躯殻外之虚、便 是天也。天者吾 心也、心葆含 万有、於是焉 可悟矣。故有 血気者至草木 瓦石、視其 死、視其摧 折、視其毀 壊、則令 傷吾心、以 本為心中物故 也、若先有慾 而塞心、則心 非虚。非虚 則頑然一小物、 而非天体也。 便与骨肉既 分隔了。何況 其他耶。名之 以小人亦 理乎。

  も の   ほか きよ  躯殻の外の虚は便ち天、我が心は躯殻の外の虚、天は取り                    すべてのもの つゝ も直さず吾が心の本体である。従ッて天が 万物 を裏んで居   やう        あらゆるもの はうがん        るが如に心も亦『万有 を葆含する』と言ッて可い。其の証拠 には、人間は言ふに及ばず、禽獣虫魚などの死ぬのを見ても、      くだ                   つちくれ 草木の類が摧き折らるゝのを見ても、さては、石や瓦や塊の たぐひ こぼ  やぶ 類の毀ち壊らるゝのを見ても、何とは無しに一種言ふには言      あはれ はれぬ物の情を感ぜずには居られない。といふのは、是等の      も と        うち ものは、本来我が心の中のものだからである。しかし斯様に            あはれ          ありのまゝ すがた 万物の死滅に対して物の情を感ずるのは、我が心の本来の相  まるで あらは が全然表現れた時、即ち我が心が虚にかへッた時のことで、          きざ         ○ ○ありのまゝ○ すがた○ ○ ○ ○ ○ ○ 若し一点欲念の心に兆すあッて、其の本然の相を塞ぐならば、 心は虚にかへることが出来ぬ故に、決して前に述べたがやう    あはれ に物の情を感ずるには至らない。かく我が心が虚にかへるこ                  ありのまゝ すがた とが出来ぬならば、即ち欲念を以て、本然の相を塞ぐならば、        ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○   ○ ○ ○ ○   ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 其の心や実に頑然たる一小物、欲の塊で、到底天と相通ずる ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○              ありのまゝ すがた ことは出来ない。かの我欲に囚はれて我が心の本然の相を見                       は    しう 失ッた人達は、見よ、己が我欲の為めに骨肉相食むの醜を演                          へだた じつゝあるではないか。骨肉の間に於てすら既に斯様に分隔  をは    あひわ り了る、どうして其の他し相和することが出来ようぞ、どう して万物と共鳴し得ようぞ、どうして天に通ずることが出来 ようぞ。彼等の世界は実に彼自身の肉体以外に出づることが         よ      せうじん             ゆゑ 出来ない、是を名ぶに「小人」を以てする亦理ありと言ふべ きでは無いか。

    我が心は天と同体である。而も人欲の之を塞ぐあらば、 そは既に天でなくなる。故に、人欲の私を去ッて、其の 本然の相を現はれしめばならぬと言ふのが、中斎の学説 の第一鋼領である。之を「帰太虚の説」といふ。



『洗心洞箚記』
(本文)その3

 


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