Я[大塩の乱 資料館]Я
2015.3.1

玄関へ

「大塩の乱関係論文集」目次
「大塩の乱関係史料集」目次


『通俗洗心洞箚記』
その57

大塩中斎著 下中芳岳(1878-1961)訳

内外出版協会 1913

◇禁転載◇

上巻 (53) 五三 顔子の楽み

管理人註

顔子之楽、以万 生之楽楽。朱 子曰。「人之所 以不楽者、有欲 耳。無欲便楽。」 夫心当無欲時只 虚而已。虚則以 万生之楽楽。 何者、以万生在 吾虚中也。顔子 亜聖、既至其境。 故楽焉。雖吾人モシ 如無欲、則必与 顔子其楽矣。

 (一)  顔子は衆生万物の幸福を以て自己の幸福と思ッて居た人で ある。朱子は言ッた。『人が自己の境遇に満足し得ないのは 欲の念が余りに強いからである。一たび、私欲の念を去ッて しま 了ひさへすれば、誰でも自己の境遇に満足し得るものである』 と。実際其の通りである。而して心に私欲の無い状態が即ち 私の言ふ虚である。心虚に帰れば、衆生万物の幸福を以て自 己の幸福とするやうになる。何となれば衆生万物は実は我が             (二) 心の虚中に在するが故に。亜聖たる顔子は既に其の境に達し て居たから、善く衆生万物の幸福を以て自己の幸福と為し得       ・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・ たのである。吾々も亦、私欲を去ッて心を虚に帰らしむるな ・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ らば、顔子と其の幸福を同じうすることが出来る。

    欲望の制禦如何が人をして満不満の感を抱かしむる、限りなき          あきらめ 欲望に対して一たび 諦 をつければ、人は如何なる境遇に在ッ ても幸福であり得る。又、如何に他から幸福らしく見える境遇 にある人でも、若し其の限りなき欲望を追求して居るなら、常 に不満であり不幸を感ずる。とは米のゼームスが心理学上より 論定したる所、東西の別こそあれ、其の言ふ所、軌を一にする が如き観がある。 (一)名は回、字は子淵、天性明慧、一を聞いて十を知る。孔   子の十哲。三十二にて死す。孔子曰く。「天我を喪ぼせり」   と。と以て、その如何に孔子に愛せられたるかを知るに足   る (二)亜聖とは孔子に亜ぐ聖人の意。


『洗心洞箚記』
(本文)その100


 


『通俗洗心洞箚記』目次/その56/その58

「大塩の乱関係史料集」目次
「大塩の乱関係論文集」目次

玄関へ