顔子之楽、以万
生之楽為楽。朱
子曰。「人之所
以不楽者、有欲
耳。無欲便楽。」
夫心当無欲時只
虚而已。虚則以
万生之楽為楽。
何者、以万生在
吾虚中也。顔子
亜聖、既至其境。
故楽焉。雖吾人、
モシ
如無欲、則必与
顔子同其楽矣。
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(一)
顔子は衆生万物の幸福を以て自己の幸福と思ッて居た人で
ある。朱子は言ッた。『人が自己の境遇に満足し得ないのは
欲の念が余りに強いからである。一たび、私欲の念を去ッて
しま
了ひさへすれば、誰でも自己の境遇に満足し得るものである』
と。実際其の通りである。而して心に私欲の無い状態が即ち
私の言ふ虚である。心虚に帰れば、衆生万物の幸福を以て自
己の幸福とするやうになる。何となれば衆生万物は実は我が
(二)
心の虚中に在するが故に。亜聖たる顔子は既に其の境に達し
て居たから、善く衆生万物の幸福を以て自己の幸福と為し得
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たのである。吾々も亦、私欲を去ッて心を虚に帰らしむるな
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らば、顔子と其の幸福を同じうすることが出来る。
欲望の制禦如何が人をして満不満の感を抱かしむる、限りなき
あきらめ
欲望に対して一たび 諦 をつければ、人は如何なる境遇に在ッ
ても幸福であり得る。又、如何に他から幸福らしく見える境遇
にある人でも、若し其の限りなき欲望を追求して居るなら、常
に不満であり不幸を感ずる。とは米のゼームスが心理学上より
論定したる所、東西の別こそあれ、其の言ふ所、軌を一にする
が如き観がある。
(一)名は回、字は子淵、天性明慧、一を聞いて十を知る。孔
子の十哲。三十二にて死す。孔子曰く。「天我を喪ぼせり」
と。と以て、その如何に孔子に愛せられたるかを知るに足
る
(二)亜聖とは孔子に亜ぐ聖人の意。
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『洗心洞箚記』
(本文)その100
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