父有争子、則身
不陥於不義、
故当不義。則子
不可以不争於
父。故為人父者、
不可不願有此
子也。有此子、
則躬為君子、無
此子、則自非
上智、大凡陥於
夷狄禽獣必矣、
思之悚然。
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も
人の父たる人にして若し直諫争ふを憚らざる子を有ッて居
さへすれば、自身、誤ッて不義に陥るやうなことは無い。従
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ッて人の子たるものは、父の不義を敢てせんとするに際して
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は、直言直諫、どこまでも父と争はんければならぬ。されば
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又、父たる人は、此の如き直言憚らざる子を有たんことを願
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はんければならぬ。中老以上の人にして、若し斯の如き子を
有するならば、その人は自然君子として生活を営み得る。け
れども若し、斯の如き子を有せぬならば、其の人が余程の上
智でない限りは、大方は、不義を敢てし、私欲に溺れて夷狄
きま
禽獣に陥るに必ッて居る。危険なるかな、斯の如き争子を有
ぞ つ
せざる人々の行く末。思うても悚然とするわい。
中斎、自ら争子を有せざるに感ずる所ありて此の言を発
したのであらう。而も世の父たり子たるものを戒むるに
痛烈剴切の語たるを失はぬ。常人にありては、中老以後、
動もすれば世俗の悪風に慣れて不義を敢てして憚らざる
に至ることあり、道徳堅固の人と雖も、中老以後に至り
ては、動もすれば時世に後れ、為に甘言以て人に欺かれ
て不義に陥ることあり、かゝる時に当ッて其の身を死後
に辱かしめざるを得るは一に争子のあるによる。
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『洗心洞箚記』
(本文)その104
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