Я[大塩の乱 資料館]Я
2015.3.6

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『通俗洗心洞箚記』
その62

大塩中斎著 下中芳岳(1878-1961)訳

内外出版協会 1913

◇禁転載◇

上巻 (58) 五八 知行合一

管理人註

君子之於善也、 必知行合一矣。 小人之於不善 也、亦必知行合 一矣。而君子若 知善而不行、 則変小人之機。 小人若知不善 而不行、則化 君子之基。是以 君子亦不恃。 小人亦不鄙 也。

                        (一)  善にせよ悪にせよ、或る行為が実現せられるのは、知と行 の合一である。故に、君子の善を行ふのは、必ず君子の知行 の合一である。小人が不善を行ふのも亦必ず小人の知行合一 である。   ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○   ○ ○   ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○  君子なればとて、若し、善を知ッて之を断行せぬならば、 ○ ○ ○ やが ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○   ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ それは即て小人に変ずるの一転機である。小人なればとて、 ○ ○   ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○   ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 若し、不善を知ッて之を避くるならば、それは即て君子に化 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○   ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○   ○ するの一転機である。だから君子必ずしも恃むに足らず、小 ○ ○ ○ ○ ○ ○ いやし○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 人亦必ずしも鄙むべきでは無い。

    (一)知行合一の説、これは陽明学の一特色である。然   らば如何なる意味か。知には浅知と真知とある。浅   知といふのは、ふと心に浮ぶけれどもすぐ其のまゝ   消えてしまッて、実行上に関係のない知をさすので   ある。此の知は、実は知といふほどのものでは無い。   真知といふのは、それが必ず行にあらはれる、あら   はれずには居れぬほどの力を具へた知をさすのであ   る。此が真実の知で大に貴い。而も此の知は実は行   そのものであるといふのが、知行合一の知の方から   の見方。行にも二通りある。一つは、何等の自覚も   なく、たゞ周囲の習慣や風俗の真似をするに過ぎぬ      おこなひ   やうな行為。かくの如き行為、人間の行為としては        ねうち   殆ど何等の価値もない行為である。今一つは、かう   せねばならぬといふ強い自覚を以て行ふ行為で、是   が実は真の行為である。而も斯の如き行為は真知の   結果なりと言はんよりは寧ろ真知そのものである、   故に知行は合一であるといふ、是が行の方からの見   方、即ち知と行とは二にして一、離すことの出来ぬ   ものである。されば、人に道徳上の知識を与へるな   ら、それが行為に現はれるまでの力ある知として与   へなくてはならぬといふのが、知行合一の大体の意   味。こゝでは君子、善を知ッても、それを行はぬな   らば、それは知行合一でないから、その知は本当の   知でない、従ッてそれを繰かへす中には小人に堕す   る。又、小人は、不善に行ふことに於て知行合一で   あるが、其の不善なるを知ッて之を行はぬやうに努   力するならぱ、これは又、修養の效、向上の一路に   向ッたので、善を行ふに於ての知行合一の君子にな   り得る基であるといふのである。習ひ性となるを認   めて、小人亦必ずしも自ら鄙むべきでないことを言   へる所、味ふべき語である。


『洗心洞箚記』
(本文)その109
 


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