作詩文、経学家
以為非者、恐亦
非也。六経便是聖
人之詩文也。故学
人先明其良知、
而以平日蘊於心
者、触物感事、
吐為詩文、則詩
文乃助于学、於
聖道何害之有。若
亦不明良知、而
徒弄筆墨、以売
名求誉、則与道
大背馳、要為彫虫
小技、豈非可惜
乎。
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詩文を作るを見て、経学家の中には之を非とするものがあ
る。けれども、其の非とするもの、反ッてこれ恐らくは間違
ひであらう。六経はこれ聖人の詩であり文であるではないか。
たくは
故に、学に志すもの、先づ其の良知を明にして、平日心に蘊
ふる所のものを以て、物に触れ、事に感ずるあらば、之を詩
として又は文として発表する何の妨が之あらう。斯の如き意
やが
味に於てならば、詩や文やは即て学を助くることゝなる。聖
学に於て何の害が之あらう。されど若し之に反して、良知を
明にせずして、而して徒に筆墨を弄し、以て名を売り、誉を
求めんとするが如きことあらば、其は道と大いに背馳するも
の、要するに彫虫の小技と為り終るであらう。斯くては折角
の詩や文や吾人の修養に関して何等の意味をも持たぬ、誠に
惜むべきではないか。
彼は、詩文に対して実に此の見識を持ッて居た。故を以
て、詩文の人、山陽と友とし頗る善かッたのである。即
ち山陽の詩や文や決して彫虫筆墨の小枝ではなかッたか
らである。
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『洗心洞箚記』
(本文)その110
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