Я[大塩の乱 資料館]Я
2015.3.7

玄関へ

「大塩の乱関係論文集」目次
「大塩の乱関係史料集」目次


『通俗洗心洞箚記』
その63

大塩中斎著 下中芳岳(1878-1961)訳

内外出版協会 1913

◇禁転載◇

上巻 (59) 五九 六経は聖人の詩文也

管理人註

詩文、経学家 以為非者、恐亦 非也。六経便是聖 人之詩文也。故学 人先明其良知、 而以平日蘊於心、触物感事、 吐為詩文、則詩 文乃助于学、於 聖道何害之有。若 亦不良知、而 徒弄筆墨、以売 名求誉、則与道 大背馳、要為彫虫 小技、豈非惜 乎。

 詩文を作るを見て、経学家の中には之を非とするものがあ る。けれども、其の非とするもの、反ッてこれ恐らくは間違 ひであらう。六経はこれ聖人の詩であり文であるではないか。                           たくは 故に、学に志すもの、先づ其の良知を明にして、平日心に蘊 ふる所のものを以て、物に触れ、事に感ずるあらば、之を詩 として又は文として発表する何の妨が之あらう。斯の如き意              やが 味に於てならば、詩や文やは即て学を助くることゝなる。聖 学に於て何の害が之あらう。されど若し之に反して、良知を 明にせずして、而して徒に筆墨を弄し、以て名を売り、誉を 求めんとするが如きことあらば、其は道と大いに背馳するも の、要するに彫虫の小技と為り終るであらう。斯くては折角 の詩や文や吾人の修養に関して何等の意味をも持たぬ、誠に 惜むべきではないか。

    彼は、詩文に対して実に此の見識を持ッて居た。故を以 て、詩文の人、山陽と友とし頗る善かッたのである。即 ち山陽の詩や文や決して彫虫筆墨の小枝ではなかッたか らである。


『洗心洞箚記』
(本文)その110
 


『通俗洗心洞箚記』目次/その62/その64

「大塩の乱関係史料集」目次
「大塩の乱関係論文集」目次

玄関へ