黙坐瞑目、而追思
既往事、則是非善
悪、如記如忘、茫
茫乎捉雲捕風、非
実有。「過去思之
何益」之誡、於是
乎覚得。仰想俯惟、
以億度将来事、夭
寿禍福、不可予期、
昧昧乎望夜中山、
非真見。「未来思
之何益」之訓、於是
乎醒了。然則於現在
上、正心以事君事
父、尽忠尽孝、而尽
余善之外、更無実有
真見之事矣、因可知
聖教之倫常用乎世、
而釈老之幻妄無用乎
人也。
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黙坐瞑目、既往の事を追思するに、是非、善悪、記する如
ぼう
く、忘ずるが如く、茫々乎として雲を捉へ風を捕ふるにも似
(一)
て、到底実有しとては考へられぬ。『過去は之を思ふも何の
いましめ
益かあらん』の古人の誡、是に於てか吾を欺かずと覚り得る。
かうさうふゐ
仰想俯惟、以て将来の事を億度するに、夭寿禍福、いかで
か予め期することが出来よう。昧々乎として夜中の山を望む
(二)
と一般到底真見としては考ふるよしも無い。『未来は之を思
をしへ
ふも何の益かあらん』の古人の訓、是に於てか吾を欺かずと
さと え
醒り了た。
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されば吾等は、たゞ、現在の実生活に於て、心を正しうし
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て以て君に事へ、父に事へ、忠を尽し孝を尽し、更に進んで
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は、自余の善に励むの外、更に別に実有真見のことゝては無
・
い。是に因ッても、聖教の倫常は世に用ふべく、釈老の幻妄
は人に無用なるの理を知ることが出来る。
現実生活を重んじ、空理空想を排するところ頗る珍重。
(一)実有とは、確信するに足る実際的事実といふ意。
(二)実見とは、確信するに足る合理的先見といふ意。
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『洗心洞箚記』
(本文)その116
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