雨余池満、一魚溌
刺、誤投身于地、
展転反側、蟻既攻
焉。予喫飯了、偶
歩池辺、看其
状、憫爾駆蟻、
テヅカラ
手帰諸池。圉圉
洋洋以沈没。喟然
嘆久之。因遂心
悟所謂命数之命
矣。
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わし そゞろあるき
或る日、予は食事を終ッて、庭の池の辺を漫行して居た。
それは丁度、降雨の後で、池には水が一ぱいに満ちて居た。
はねかへ
見ると、一尾の魚が、展転溌反ッて居る。数疋の蟻は、はや
其の周囲に群がッて攻撃し始めて居る。此の魚は、恐らく池
はねかへ
中の水多きを喜び、溌剌ッた拍子に誤ッて地上に身を投げ上
いぢら おひや
げたのであらう。吾は憫然しくて見るに堪へぬので、蟻を駆ッ
てづか
て手ら其の魚を取ッて池の中へ放してやッた。魚は喜ばしげ
ゆつたり
に洋洋として深く沈み去ッた。予は其の様子を見て、一種の
感に打たれて、暫しは其処を去り得なんだ。あゝ此の魚、若
し、喜んで溌剌らねば、あの様な憂目には逢はなかッたらう
に。それにしても、予が見付けたらばこそ助かッた。若し、
予が来なんだら蟻は喜んだらうが魚は死んだに違ひない、あゝ
運命。運命といふは、実に判らぬものである。しかし吾は、
此の一小出来事によッて、所謂「命数」の「命」の真義を心
悟し得た。
頗る暗示に富んだ警句。さるにても、中斎は、気質変
化を説きて所謂意志の自由を認めながら、なほ陽明学
つきもの
派に随伴たる宿命的見解は脱することが出来なんだら
しい。
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『洗心洞箚記』
(本文)その117
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