楊凝斎曰、「時有
淳澆、俗有美悪、
故泰伯居夷而化、
孔子在魯、而七十
子之外多譏之、亦
視其自立者而已。
若得位則風行草
上矣。」楊氏此説
必有所感而云爾
也。吾亦嘗有説曰。
孔子大聖人也。天下
大也。四海広也。莫
皆不仰望其徳、
莫尽不尊尚其道。
然此孔子没後、数十
百年而乃然。当其
生時、長孔子者、
貴乎孔子者、未
嘗聞有一人誠仰
其徳、真尊其道
者也。而如其升
堂入室之諸賢出焉、
則孔子晩年之事、而
其少孔子、大抵不
下三四十如五十也。
故孔子四十歳之時、
顔子十歳、子貢九歳、
有子七歳、閔子五歳、
而仲弓冉有共七歳、
皆丱角童也。冉伯牛
宰我年歯雖不見
載籍、恐与数子
不相遠矣。 如子
游子夏則未生矣。
而伝衣鉢之曾子及
子張亦未生也。且
子路雖少九歳、執
贄蓋尤晩矣。自余七
十子三千之徒、長
孔子、貴乎孔子
者、未之有也、而
七十三千、雖其数
如多、視之平天下
四海、則特大倉一
粒而已矣。豈多乎哉。
夫天下之大、四海之
広、而当時何為入
其門受其教者乃
少矣耶。是吾所以
疑之不解乎心也。
熟読論孟、然後
其疑始釈然矣。子曰。
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(一)
楊凝斎は言ッた。
『時には、淳朴な時代もあり、又淳朴ならぬ澆季時代もあ
る。世には美しき風俗もあり、又、美しからぬ悪風俗もある。
(二)説明欠
だから、泰伯の至徳を以てしてすら、猶ほ、蛮夷の地に身を
逃れて以て天下を無事ならしめんければならぬ境遇に立ッた。
孔子の聖を以てしてすら、其の魯に於ける、猶ほ七十弟子以
外の多くの者には譏られざるを得なんだ。是れ取りも直さず、
時非にして俗美ならざりしが為である。当時の人々は、単に
其の自立する所帝王、これに属する諸侯百官の人々をのみ偉
いと思ひ、其の他の人は皆つまらぬものとのみ思ッたからで
ある。従ッて若し、泰伯にして大王の後を襲ひて帝位に即き、
孔子にして顕要の地位に立ッたならば、恰も風の草木を靡か
すが如く、天下の人をして心眼敬服措く能はざらしめ、其の
尊崇を一身に集め得たに違ひない。』と。楊氏の此の説、恐
みづか
らく、自ら世に処するに当ッて痛切に感ずる所あッて爾か言ッ
わし
たのであらう。此に就いて、予も曾て斯う考へたことがある。
孔子は大聖人である。天下の大である。四海の広である。
おほ
天下は広く、四海は宏きい。けれども一人として其の徳を仰
望せぬものは無く、一人として其の道を尊尚せぬものは無い。
とは言へ、此は、孔子の没後数十百年にして次第に其の徳が
現はれ、其の道が弘まッて斯くなッたのであッて、其の生前
に於ては決してさうではなかッたのである。実を言へば、孔
としうへ
子の生前にあッては、孔子よりも年長の者で、孔子を貴んだ
ものは一人もなかッた。誠に其の徳を仰ぎ、真に其の道を尊
としした
んだものは一人もなかッた。年少の人にても、其の堂に昇り、
其の室に入るの諸賢の続出するやうになッたのは、孔子の晩
年のことである。だから其の弟子等は、孔子に比べると、頗
わか
る年少であッて親と子よりも猶ほ少い、大抵は三四十から五
い
十位も違ふから、孫といッても可い位である。其の数子に就
いて言へば、孔子の四十歳の時に、顔子は十歳であッた。子
貢は九歳であッた。有子は七歳であッた。閔子は五歳であッ
た。仲弓、冉有は共に七歳であッた。だから皆まだ、ほんの
けしばうず わらんべ と し かきしる
子供、丱角の童であッた。冉伯牛や宰我の年歯は、載籍して
無けれど、恐らく数子と余り違はなかッたことゝ思ふ。そし
て、子遊、子夏の如きは、其の頃まだ生れてなかッた。孔子
の衣鉢を最も多く伝へて居たと言はるゝ曾子や子張さへまだ
生れてなかッた。子路のみは、可なり老けて居て、孔子より
若きこと僅に九歳ではあッたが、しかし是は弟子入したのが
そのた
他の数子に比べて尤晩かッたのである。自余の七十子三千の
としうへ
徒、また皆固より孔子より年少であッて、孔子よりも年長で
孔子を貴んだものは全く一人もなかッた。其の七十子、三千
の徒を言へば、一見頗る其の弟子の多きを思はぬではないが、
しかし、天下四海の広大より見れば、実に大倉中の一粒たる
に過ぎない。どうして多いと言はれよう。天下の大、四海の
広と、其の徳を斎しうする孔子にして、当時、何の為に、其
の門に入ッて其の教を受くるものが斯様に少なかッたか、是
わし
れ予が、初め不審に思ッて疑の解けなんだ所であッた。けれ
ども、其の後、論語、孟子を熟読するに及んで、始めて其の
疑問が釈然として解けた。孔子は斯う言はれた。
(一)明儒。陽明学派の人。
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『洗心洞箚記』
(本文)その123
譏(そし)られ
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