Я[大塩の乱 資料館]Я
2015.3.21

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『通俗洗心洞箚記』
その71

大塩中斎著 下中芳岳(1878-1961)訳

内外出版協会 1913

◇禁転載◇

上巻 (67) 六六 言奇に似て奇ならず

管理人註

昨陰而今晴。余偶 与弟子園地。 忽仰天曰。「今即 陰、而昨乃晴也哉。」 弟子駭曰。「先生 豈狂矣乎。今晴而 反謂之陰、昨陰 而反謂之晴。何 也。」曰。此非 輩所知也。夫今之 晴、特散焉耳。昨 之陰、只聚焉耳。 今雖散也、其所 以聚者、亦充塞 乎太虚中矣。昨雖 聚也、其所以散 者、亦布乎太 虚中矣。是故雖 聚必散矣。故曰昨 晴。雖散必聚矣。 故曰今陰。言奇而 非奇。是常理也。 如能了悟之、則 未発已発之理亦一 般、而当戒懼 慎独之為実功也 夫。

      くも              わし  実際は昨日陰ッて居た。今日は晴れて居る。予は、弟子と         に は                ひとりごと 共に、其の時、園地を歩んで居た。予は忽ち天を仰いで独言ッ た。  『今日は陰ッて居る。昨日は晴れて居たに。』と。すると、 弟子は駭いで曰ッた。      まさ  『先生は豈か気が狂ッたんぢやありますまいに。今はこん                   おつしや なに晴れて居るに、反ッて陰ッて居ると仰言る。昨日こそ陰                         そ ん ッて居ましたに、反ッて晴れたと仰言る。どうして左様なこ とを仰言るのか。』と。予は言ッた。      おまへたち  『それは輩には解るまい。不審ならば言ひ聞かせやう。 けふ 今、空の晴れて居るのは、たゞ雲が散ッたといふに過ぎぬ。 きのふ 昨の陰ッて居たのは、たゞ雲が聚ッて居たといふに過ぎぬ。                       あつま で、今、その雲は散じて居るけれども、又、何時聚るか知れ                            ない。何故ならば、其の聚り得る力は、決して無くなッたの       ちやん            ふさが ではなくて、依然と太虚の中に充塞ッてある故。昨は其の雲 が聚ッて居たけれども、又、何時散ずるかも知れぬ、否、実 際かく散じて晴れたぢやないか。つまり、聚ッて居ても、其               ひろが の散ずる力は依然と太虚の中に布ッて居る。是の故に、聚ッ          も と ても必ず散ずる。原因からいへば昨日は晴だ。散ッても必ず 聚る。原因からいへば、今日は陰だ。言ふ所、奇のようだが                実は奇では無い。常理である。如し、此の理を能く悟了した       (一)               (二) ならば、かの未発已発の理も亦同じことであッて、戒懼慎独 が如何に修養上実功があるかをも知ることが出来る。

    (一)未発已発の理―現象として或る力の外に発現は   れたるが已発。しかし、其の現はれが道義に合せ   んが為には、未発の心を正しうしておく必要があ   る。 (二)戒懼慎独―自ら戒め懼れて独りを慎むといふこ   とは事に当ッてうろたへぬ用意である。事に当ッ   た時の行為の良否は、平生の修養如何にある。 (一)、(二)共に、「今日の修養はやがて明日の善 である。今日の善は取りも直さず昨日の修養である」 との意を明にせんが為の例である。


『洗心洞箚記』
(本文)その124
 


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