昨陰而今晴。余偶
与弟子歩園地。
忽仰天曰。「今即
陰、而昨乃晴也哉。」
弟子駭曰。「先生
豈狂矣乎。今晴而
反謂之陰、昨陰
而反謂之晴。何
也。」曰。此非
輩所知也。夫今之
晴、特散焉耳。昨
之陰、只聚焉耳。
今雖散也、其所
以聚者、亦充塞
乎太虚中矣。昨雖
聚也、其所以散
者、亦布乎太
虚中矣。是故雖
聚必散矣。故曰昨
晴。雖散必聚矣。
故曰今陰。言奇而
非奇。是常理也。
如能了悟之、則
未発已発之理亦一
般、而当知戒懼
慎独之為実功也
夫。
|
くも わし
実際は昨日陰ッて居た。今日は晴れて居る。予は、弟子と
に は ひとりごと
共に、其の時、園地を歩んで居た。予は忽ち天を仰いで独言ッ
た。
『今日は陰ッて居る。昨日は晴れて居たに。』と。すると、
弟子は駭いで曰ッた。
まさ
『先生は豈か気が狂ッたんぢやありますまいに。今はこん
おつしや
なに晴れて居るに、反ッて陰ッて居ると仰言る。昨日こそ陰
そ ん
ッて居ましたに、反ッて晴れたと仰言る。どうして左様なこ
とを仰言るのか。』と。予は言ッた。
おまへたち
『それは輩には解るまい。不審ならば言ひ聞かせやう。
けふ
今、空の晴れて居るのは、たゞ雲が散ッたといふに過ぎぬ。
きのふ
昨の陰ッて居たのは、たゞ雲が聚ッて居たといふに過ぎぬ。
あつま
で、今、その雲は散じて居るけれども、又、何時聚るか知れ
ない。何故ならば、其の聚り得る力は、決して無くなッたの
ちやん ふさが
ではなくて、依然と太虚の中に充塞ッてある故。昨は其の雲
が聚ッて居たけれども、又、何時散ずるかも知れぬ、否、実
際かく散じて晴れたぢやないか。つまり、聚ッて居ても、其
ひろが
の散ずる力は依然と太虚の中に布ッて居る。是の故に、聚ッ
も と
ても必ず散ずる。原因からいへば昨日は晴だ。散ッても必ず
聚る。原因からいへば、今日は陰だ。言ふ所、奇のようだが
も
実は奇では無い。常理である。如し、此の理を能く悟了した
(一) (二)
ならば、かの未発已発の理も亦同じことであッて、戒懼慎独
が如何に修養上実功があるかをも知ることが出来る。
(一)未発已発の理―現象として或る力の外に発現は
れたるが已発。しかし、其の現はれが道義に合せ
んが為には、未発の心を正しうしておく必要があ
る。
(二)戒懼慎独―自ら戒め懼れて独りを慎むといふこ
とは事に当ッてうろたへぬ用意である。事に当ッ
た時の行為の良否は、平生の修養如何にある。
(一)、(二)共に、「今日の修養はやがて明日の善
である。今日の善は取りも直さず昨日の修養である」
との意を明にせんが為の例である。
|
『洗心洞箚記』
(本文)その124
|