程朱在 当時 、不
能 免 於奸人陳公
輔、何若王淮陳賈
等之讒毀誣妄 、而
曲学偽学之禁、至
詔 諭於天下 、何
其悖罔之極乎。然
而天定、則讒毀逞
志一時 者、皆虫滅
草亡、而程朱之学、
与 天地日月 、争
悠久光明 、不 亦
大 矣乎。史臣甞論
程学之禁 曰。「大
抵聖賢之道、不 行
於当時 、而行 於後
世 者、理勢然也。
高宗但知 尊 孔孟 、
而不 知 尊 伊川 、
非 理勢 乎。正使
孔孟在 当時 、亦
不 見 尊 於高宗 、
夫何怪哉。」史臣
嘗又論 朱学之禁
曰。「王淮以 唐仲
友之故 、深怨 朱
子 、欲 謀沮 之。
由 是陳賈鄙夫、趨
順風旨 、上章詆毀、
厚誣 聖賢 。鳴呼、
以 道学 為 詭異 、
其欺 天罔 人、莫
此為 尤。自 是道学
之名、貽 禍於世 矣。
雖 然天之未 喪 斯
文 、匡人其如 予何。
吾道如 青天白日 、
大明 於世 、一二狗
所 謗 哉。」史
臣之論弁、可 謂 明
快痛切無 余蘊 矣。
然奸人以 曲学偽学
抹 殺之 、何故也。
吾請以 一言 弁 其
由 。
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程朱や朱子やは、偉大なる人格だッたが、其の当時にあッ
ては、奸人陳公輔や何若王や淮陳賈等の讒毀誣妄を免るゝこ
とが出来なんだ。而して、其の説く所の学説は、曲学である、
偽学である、故に之を聞き之を奉ずるの徒は、国法を以て罰
ぼつ
するとの禁令が詔諭を以て天下に発表せられた。何といふ悖
り も ぎ だう
理、何という罔義道のことであらう。実に不法、暴令の極で
はないか。
けれども、正しきものに最後の勝利がある。一たび、天定ッ
さき
て、新時代の曙光を仰ぐに至ッて、向に正善なるものを讒毀
して、以て志を一時に逞しうしたる徒輩は、皆虫と滅び草と
亡びた。と同時に程朱の学は世に現はれた。そして天下を風
靡した。天地日月と共に悠久に其の光明を争ふことゝなッた。
正しいものゝ力も又偉大では無いか。
さるししん
甞て某史臣が、程学の禁を論じて斯う言ッて居る。
『大抵聖賢の道といふものは、其の当時に行はれないで、後
世に至ッて行はれるものである。此は理勢の然らしむる所亦
已むを得ない。高宗皇帝は、たゞ、孔孟の尊ぶべきを知ッて、
程伊川の尊ぶべきを知らなかッた、是れ正しく理勢の然らし
むるものではないか。孔孟と雖も、若し、当時に生在して居
たならば、高宗皇帝の尊敬を受けなんだに違ひない。観じ来
れば、程学の禁、又必ずしも怪しむに足らぬ。』と。
史臣は又、嘗て朱学の禁を論じて斯う言ッて居る。
(一) 仲?
『王淮は唐中友に対する関係上、深く朱子を怨んで居た。
ど う
如何かして之を沮害しようと思ッて居た。処が、鄙夫陳賈は、
己が非行に対する攻撃を避けんが為に朱子を除かうと思ッて
居る折柄であッたので、順風の帆、渡りに船と、直ちに王淮
そし きづつ
の申し出でを利用して書を上り、荐りに朱子を詆り毀け、延
いては盛に聖賢を攻撃し、道学を以て危険思想だと貶した。
あざむ とが
此れ実に天を欺き人を罔き而も自己を尤めざるものである。
のみならず此の事あッて以来、道学の名目に一汚点をつけ、
禍を後世に貽し、斯学を喜ばざるものゝ口実を作ることゝなッ
きやうじん
た。けれども、天の斯文を喪はしめざる匡人それ予を如何せ
んやである。吾が道は青天白日の如く大に世に明に、到底、
いぬころども そしる
一二、狗 輩の謗 の為に其の光を失ふやうなことは無い。』
と。
以上、史臣の論弁する所、明快痛切、真に余蘊なしである。
けれども、かの奸人輩が、程朱の学を以て、曲学となし、偽
学と称して之を抹殺し去らうとした動機は何れにあるか、是
わし
に就いて、予は一言、其の根本的理由を弁じておかうと思ふ。
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『洗心洞箚記』
(本文)その133
讒毀
(ざんき)
告げ口すること
誣妄
(ふぼう)
作りごとを言っ
て人をそしるこ
と
悖理
(はいり)
道理にもとる
こと
(一)の説明なし
荐(しき)り
余蘊
(ようん)
あますところ
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