夫聖賢言行、大反
俗情 矣。俗情者何、
盗跖所 云是也耳。
其言曰。「人之情、
目欲 視 色、耳欲
聴 声、口欲 察 味、
気欲 盈。人上寿百
歳、中寿八十、下寿
六十、除 病痩死喪
憂患 、其中開 口而
笑者一月之中不 過
四五日 而已矣。天
与 地無窮、人死者
有 時、操 有 時之
具 、而託 於無窮之
間 、忽然無 異 騏
驥之過 隙也。不
能 説 其志意 、養
其寿命 者、皆非
通 道者 也。丘之
所 言、皆吾之所 棄
也。」此雖 荘子之
寓言 、今古貴賤上
下之所 心口相期 者、
不 出 斯数語 也。
而聖賢之道則反 之。
非 礼勿 視聴言動 、
而志気常収 乎内 以
不 放、雖 在 病痩
死喪憂患之中 、以
皆尽 其心 為 道矣 。
而未 嘗為 以 是累
也。而常人開 口而
笑者、莫 非 淫戯放
逸之事 也。聖賢遭
之則決不 笑。却有
蹙 攅眉、以憂愁悲
哀 者多矣。
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聖賢の言行といふものは、総じて大に俗情に反するもので
ある。然らば、俗情とは何か。盗跖の言ふ所がそれである。
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『目は色を見んことを願ふ。耳は声を聞かんことを願ふ。
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口は味を察せんことを願ふ。気は盈ちんことを願ふ。是れ実
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に万人共通の情である。人は最も長寿の人でも百歳を超ゆる
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ことは殆ど無い。次いでは八十歳、最も多きは六十歳であら
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う。而も其の中の大部分は、病んだり、痩れたり、家族に死
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に別れたり、物を喪ッたり、はた様々のことを 憂患 ッたり
△ △ △ △ △ △よろこび △ △ △ △ △ △ △ △ △ △ △ △ △ △ △ △ △ △
して居る生の歓楽を味ッたり、口を開いて笑ッて天を楽むが
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如きは、一月の中、僅に四五日しかあるまい。天地は無窮で
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あるが、人は時が来れば死なねばならぬ。時が来れば死なね
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ばならぬ此の身を無窮の天地に託して居る、人の一生は実に
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果敢ないものである。無窮の天地に比ぶれば、人の一生の如
△ △ △ △ △ △ △ ひかげ △ △ △すきま △ △ △ △ △ △ △ △ △ △ △ △ △
きは、忽然として騏驥が戸の隙を過ぎ去るにも喩へつべきで
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ある。かの精神の修養ばかりを説いて、其の寿命を養ひ得ぬ
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輩は、皆人情に通ぜざるものである。されば、孔子の言ふ所
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の如きは、皆吾が棄てゝ顧みざる所である。』と。固より此
は、荘子が、盗跖の心事は斯うでもあらうとて寓言したので
はあるが、道を修せざる古今の貴賤、上下が、心口相期する
所、皆亦此の数語の外には出でぬ。而も聖賢の道は全く之に
反するのである。
○ ○かな ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
礼に合はねば、視るな、聴くな、言ふな、動くな。志気は
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常に内に収めて放つな。たとひ、病痩、死喪、憂患の中にあッ
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ても、猶ほ出来る限りの心を尽せといふ。是が聖賢の道であ
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る。而も真の道を得たる人にあッては、決して道を行ふこと
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を苦にしない。喜んで道を行ふものである。故に、仮令、病
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○わづら○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
苦の中にあッても、其が為に心を累はさるゝやうなことは無
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い。けれども、常人の笑ふ場合には、聖賢の笑はぬことがあ
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る。何となれば、常人の口を開いて笑ふは、淫戯放逸の事な
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らぬは無いからである。聖賢にして、若し、其の場に居合は
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○かほをしか○ まゆをひそ ○ ○ ○ ○ う れ ○
すれば、笑ふどころか、却て蹙 め、攅眉めて、以て憂愁ひ
かなし ○ ○ ○ ○ ○ ○
悲哀むに違ひない。
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『洗心洞箚記』
(本文)その133
盈(み)ちん
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