程朱抑乎一時、而
伸乎万世、固大矣。
然其躬在後世、則
亦何尊之哉。只其
尊之也、以死而不
言也。如雖死、判
理欲、正是非如
生前、厭之悪之、
誰敢師尚之哉。何
以知之。君陳曰。
「凡人未見聖、若
不克見、既見聖、
亦不克由聖、爾其
戒哉。」夫不見聖
則仰慕焉。見則不能
由其教。非啻不
能由其教、必奔而
避焉。故陽明子亦曰、
「們拏一箇聖人
去、与人講学、人
見聖人来、都怕走
了。如何講得行。」
吾以此二語、知其
不師尚之也。而後
来以陽明子之学為
異学、其亦理勢之所
不免也。奚足惑哉。
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よく
程朱が、一時に抑せられて、万世に伸びたる、固より其の
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本質の偉大なるが為である。而も、後世の程朱を尊ぶ人々と
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雖も、若し、其の時代に、程朱が存命して居たならば、亦恐
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らくは之を尊ばなんだであらう。後世の人の程朱を尊ぶは、
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唯、既に死して言はぬからである。又若し、仮令、死んでゐ
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ても、其の時代の人々の上に就いて、生前の如く、理欲を判
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じ、是非を正すならば、而して又、生前の如く、其の不義を
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悪み、不正を厭ふならば、誰か之を師として尚ばうぞ、恐ら
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くは、事を構へて讒誣誹謗を至らざるなしであらう。何とな
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れば、常人に取りては、正人の正論は、自己の意志遂行に逆
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ふことゝなるからである。君陳は斯う言うて居る。
『凡人は聖を見ない。見ないのでは無い。見ることが出来
よ
ぬのである。が既に聖を見得たりとするも、聖に由ることが
でき
克ない。爾等、此の点を常に自ら戒むる所あれ』と。謂ふ心
は、常人を俟つには常人を以てするがよいといふのである。
即ち常人は聖を見さへせねば反ッて仰ぎ慕ふものだが、一た
び、聖の聖たる所以を見れば、自己の心たる、人欲と余り隔
たりがある故に、其の教に由ることが出来ぬばかりでなく、
必ず奔り避くるであらう。されば、陽明子も亦言はれた。
なんぢら
『們決して聖人ぶるな。人に学を講ずるに当ッて、人、
すべ おそ い
聖人来ると見れば都て怕れて走ッて了ふ。どうして学を講じ
道を説くことが出来よう』と。
わし
吾は、以上の二語に依ッて、常人の、聖賢を師とし尚び得
ぬ理由を知ッた。程朱の後、陽明の出づるや、亦異学として
之を排撃するものゝ尠なくなかッたのは、畢竟、上来述べ来ッ
た理勢の免れざる所、何も不審に思ふことは無い。
盲人千人の世の中、高きもの、清きもの、美しきもの、
其の時代に於ては、認めらるゝことの難き所以を論じて
剴切周密、真に一大論文である。所謂、懦夫をも立たし
むる力がある。
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『洗心洞箚記』
(本文)その133
尚(たっと)ばう
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