Я[大塩の乱 資料館]Я
2015.3.27

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『通俗洗心洞箚記』
その77

大塩中斎著 下中芳岳(1878-1961)訳

内外出版協会 1913

◇禁転載◇

上巻 (73) 六九 常人、聖賢を知らず(4)

管理人註

程朱抑乎一時、而 伸乎万世、固大矣。 然其躬在後世、則 亦何尊之哉。只其 尊之也、以死而不 言也。如雖死、判 理欲、正是非 生前、厭之悪之、 誰敢師尚之哉。何 以知之。君陳曰。 「凡人未聖、若見、既見聖、 亦不聖、爾其 戒哉。」夫不聖 則仰慕焉。見則不其教。非啻不其教、必奔而 避焉。故陽明子亦曰、 「們拏一箇聖人 去、与人講学、人 見聖人来、都怕走 了。如何講得行。」 吾以此二語、知其 不尚之也。而後 来以陽明子之学 異学、其亦理勢之所免也。奚足惑哉。

        よく  程朱が、一時に抑せられて、万世に伸びたる、固より其の                 ・・・・・・・・・・・ 本質の偉大なるが為である。而も、後世の程朱を尊ぶ人々と ・・ ・・ ・・・・・ ・・・・・・・・・・・・ ・・ 雖も、若し、其の時代に、程朱が存命して居たならば、亦恐 ・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・ らくは之を尊ばなんだであらう。後世の人の程朱を尊ぶは、 ・・・・・・ ものい ・・・・・・ ・・ ・・・・ 唯、既に死して言はぬからである。又若し、仮令、死んでゐ ・・ ・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・ ・・・・ ても、其の時代の人々の上に就いて、生前の如く、理欲を判 ・ ・・・・・・・・ ・・・・ ・・・・・ ・・・・・ じ、是非を正すならば、而して又、生前の如く、其の不義を ・・ ・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・ ・・ 悪み、不正を厭ふならば、誰か之を師として尚ばうぞ、恐ら ・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・ くは、事を構へて讒誣誹謗を至らざるなしであらう。何とな ・・ ・・・・・・・ ・・・・・・ ・・・・・・・・・ れば、常人に取りては、正人の正論は、自己の意志遂行に逆 ・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・ ふことゝなるからである。君陳は斯う言うて居る。  『凡人は聖を見ない。見ないのでは無い。見ることが出来                        ぬのである。が既に聖を見得たりとするも、聖に由ることが でき 克ない。爾等、此の点を常に自ら戒むる所あれ』と。謂ふ心 は、常人を俟つには常人を以てするがよいといふのである。 即ち常人は聖を見さへせねば反ッて仰ぎ慕ふものだが、一た び、聖の聖たる所以を見れば、自己の心たる、人欲と余り隔 たりがある故に、其の教に由ることが出来ぬばかりでなく、 必ず奔り避くるであらう。されば、陽明子も亦言はれた。   なんぢら  『們決して聖人ぶるな。人に学を講ずるに当ッて、人、         すべ  おそ    い 聖人来ると見れば都て怕れて走ッて了ふ。どうして学を講じ 道を説くことが出来よう』と。  わし  吾は、以上の二語に依ッて、常人の、聖賢を師とし尚び得 ぬ理由を知ッた。程朱の後、陽明の出づるや、亦異学として 之を排撃するものゝ尠なくなかッたのは、畢竟、上来述べ来ッ た理勢の免れざる所、何も不審に思ふことは無い。

    盲人千人の世の中、高きもの、清きもの、美しきもの、 其の時代に於ては、認めらるゝことの難き所以を論じて 剴切周密、真に一大論文である。所謂、懦夫をも立たし むる力がある。


『洗心洞箚記』
(本文)その133














尚(たっと)ばう
 


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