Я[大塩の乱 資料館]Я
2015.4.2

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『通俗洗心洞箚記』
その79

大塩中斎著 下中芳岳(1878-1961)訳

内外出版協会 1913

◇禁転載◇

上巻 (75) 七一 儒釈の弁

管理人註

儒釈之弁、於其精 也。陽明先生之説尽 矣。而載於伝習録  * 吾党之学人常覧観 之。故略焉。於其 粗也、張南軒先生 詳論明晰莫加焉。 今録其語。曰。 「酒之為物、以奉 祭祀賓客、此 即天之降命也。而 人以酒之故、至 於失徳喪身、即 天之降威也。釈氏 本悪天之降威者、 乃併天之降命 者之。吾儒則 不然。去其降威 者而已。降威者 去、而降命者自在。 如飲食而至於暴 殄天物、釈氏悪 之、必欲蔬茹、 吾儒則不於暴 殄而已。衣服而至 於窮極奢侈、釈氏 悪之、必欲壊 色之装。吾儒則去 其奢侈而已。至於 悪淫慝而絶夫婦。 吾儒則去其淫慝而 已。釈氏本悪人欲、 併天理之公者之。吾儒去人欲、 所謂天理者照然矣。 譬如水焉。釈氏悪 其泥沙之濁、而窒 之以土。不土能 窒、則無水可飲矣。 吾儒則不然。澄其 泥沙、而水之清者 可酌。此儒釈之分 也」。朱子嘆服之。 是故儒者去威者 之工不著実、而不釈氏悪之之原、 只漫以異端釈 氏、則釈氏必目儒 以穢濁。是以聖経 賢伝、字字句句、以 只去人欲之事 後人焉耳。後人忽 之何哉。

 儒と釈との弁は其の精細なる点に於て陽明先生の説で十分 明になッている。これ以上言ふ必要は無い。が其の説は、伝 習録に載ッて居るから、吾が党の学人は常に之を観て既に承 知のこと故、更めて此処に録することは止めよう。しかし、    ざつ                 (一) 一通り粗と儒と釈との区別を弁じたものでは、張南軒先生の 詳論明晰なるに過ぎた説はない。で此処には其の語を録して 置かうと思ふ。  『酒に就いて考へて見ると、酒は神を祀ッたり、賓客に供 したりするには極めて必要なものである。されば、酒を以て 斯様なる用に供する場合には、酒は天の命を降したものとし て考ふべきである。何となれば、斯かる場合には、酒は人生 に幸福を齎し来るものだからである。けれども、人若し、酒 の為に徳を失ひ身を喪ふに至る場合には、酒は天の威を降し たものとして考ふべきである。何となれば、斯かる場合には、 酒は人生に不幸を齎し来るからである。斯く酒には人生に幸 福を与ふる方面と不幸を与ふる方面との二方面がある。即ち、 「天の命を降すもの」として考ふべき方面と「天の威を降す もの」として考ふべき方面とがある。此の事は酒に就いて言                           たと ひうるばかりでない、何に就いても言ひ得る。さて、此の比 へ もと 喩を拠として考ふるに、釈は、本来、天の威を降すもの、即 ち人生に不幸を齎し来るものを悪む、此の点は善い。けれど も、其の之を悪むの余り、天の命を降すもの、即ち人生に幸 福を齎し来るものをも併せて之を去らうとする、此の点が賛 成し兼ぬる所である。吾が儒に於てはさうではない。たゞ、 其の威を降すもの、即ち不幸を齎し来るものを去るのみであ る。かくて威を降す、即ち不幸を齎し来るものさへ除き去れ ば、其の命を降すもの、即ち人生に幸を齎し来るものは依然 残ることゝなるのである。是を他に例に依ッて比較すれば、                     しひた  一、釈は、人の飲食をの求めて徒に天物を暴殄ぐるに至る   を悪むの余り、全く肉食を禁じて疏茹をのみ食しようと   する。吾が儒は、たゞ徒に天物を暴殄ぐるに至らぬもの   である。  一、儒は、人の衣服を求めて徒らに奢侈の窮極に赴かんこ   とを悪むの余り、一切壊色の衣を著ようとする。吾が儒   は、たゞ其の奢侈を去るのみである。  一、釈は人の淫匿を悪むの余り、妻帯を禁じ、夫婦の関係   を絶たうとする。吾が儒は、たゞ其の淫匿を去るのみで   ある。  一、釈は、人欲の私を悪むの余り、天理の公をも併せ去ら   うとする。吾が儒はたゞ、人欲を去ッて、天理は益々照   然たらしめんとするのである。  更に之を水に譬へることが出来る。釈は、其の泥沙の濁れ                るを悪むの余り、土を以て水を窒めてしまはうとする、而も 水を窒めるに土を以てすれば、其の飲むべき水の無くなッて しま 了ふことを知らぬ。吾が儒はさうでは無い。たゞその泥沙の            澄まんことを求める。清めば乃ち酌むべきである。曾て濁り 居たればとて、何の其の総てを捨つる必要があらうぞ。此は 是れ、釈と儒との異なる所である』と。朱子も此の説には嘆 服したといふ。  此の故に、若し儒者にして、天の威を降すものを去るの工               も と 夫著実ならず、釈の之を悪む原因を深く研究もせずして、漫 に異端の一語を以て釈を貶するあらば、釈も亦必ず其の「威 を降すものを去るの工夫の著実ならざる」点に於て、儒を目 するに穢濁を以てするであらう。此の故に、聖経の経伝、其 の後人に教ふる所は、字字句句、天理を存して人欲を去るに あらぬは無い。然るを、後人の此の点を忽にするとは何とも 心得難き次第ではないか。

    (一)張南軒、一名は拭、字は敬夫、宋の人、朱子の友   人、自ら古聖賢を以て任じた人。南軒易説等の著あ   り。


『洗心洞箚記』
(本文)その140



*
「党」の字脱



















齎(もたら)し








































疏茹(そじょ)























































忽(ゆるがせ)




原文では
「故吾輩晩年・・」
と続く
 


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