Я[大塩の乱 資料館]Я
2015.4.5

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『通俗洗心洞箚記』
その82

大塩中斎著 下中芳岳(1878-1961)訳

内外出版協会 1913

◇禁転載◇

上巻 (78) 七四 理想の人格

管理人註

鳴呼。孔子之気象徳 容、子思道尽之矣。 其言曰。「唯天下至 聖、為能聡明睿知、 足以有臨也。寛裕 温柔、足以有容也。 発強剛毅、足以有 執也。斉荘中正、足 以有敬也。文理密 察、足以有別也。 溥博淵泉、而時出 之。」如其門弟子、 則不之、而 只主一。主一故器 矣。不一而溥博 淵泉、而時出之、 則与太虚同体者矣 乎。故孔子即不器也。 即天也。其賢於堯 舜、豈但文字貽於 万世而已哉。

 孔子の気象徳容に就いては、子思が中庸に於て之を道ひ尽 して居る。斯う言うて居る。              (一)        『唯、天下の至聖は、能く聡明睿知、以て臨むあるに足り、 (二)               (三) 寛裕温柔、以て容るゝにあるに足り、発強剛毅、以て執るあ      (四)              (五) るに足り、斉荘中正、以て敬するあるに足り、文理密察、以             (六) て別つあるに足ると為す。溥博淵泉にして時に之を出す。』 と。真に其の通りである。其の門弟の如きは、皆偉かッたけ れども、これだけの徳を兼ね具へることが出来なんだ。各人 唯其の一を主として有するのみであッた。一を主とする、故 に器―特色のある人物、用ひ所のある人物―だと言ふことが 出来る。孔子の如く、一を主とせずして溥博淵泉、あらゆる 徳を具へて居て、必要に応じて時に之を発揮する。斯くの如 きは実に太虚と其の体を同じうするものである。故に孔子は 器ではない、用ひ所の定ッた人物ではない、何れの処に用ふ るも可ならざるなしである。是れ人の域を超越した人である。 人と言はんよりも天である、天そのものであると言ッた方が                (七) よい位のものである。孔子を以て堯舜より賢なりしとしたの は、単に、賛美的誇張的の文字を万世に貽すのみでは無い。 是れ事実である。言葉ではない。実行である。

    (一)は政をなすの明をいふ。 (二)は衆人を容るゝ雅量をいふ。 (三)は其の意志の強固なるをいふ。 (四)は畏敬せらるゝ礼容をいふ。 (五)是非の判断力あるをいふ。 (六)溥は高くして其の際涯の見えざること、博は広く   して限り無きこと、即ちあらゆる方面に於て秀で居   るをいふ。 (七)孟子の言葉にも「生民ありてより以来、未だ孔子   より盛なるはあらず」などある。


『洗心洞箚記』
(本文)その147
 


『通俗洗心洞箚記』目次/その81/その83

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