Я[大塩の乱 資料館]Я
2015.4.6

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『通俗洗心洞箚記』
その83

大塩中斎著 下中芳岳(1878-1961)訳

内外出版協会 1913

◇禁転載◇

上巻 (79) 七五 偉大なるかな聖人の徳(1)

管理人註

天下之有目者、以 白為白、以赤為 赤、視鹿不馬、 視馬不鹿。有耳 者、以清為清、以 濁為濁、聴笛不 瑟、聴瑟不笛、 於口鼻皆亦然。此何 嘗与聖人異也哉。而 天下之有心者、知孝 之可為、而不孝之不為也、知悌之可為、 而不悌之不為也、 知忠与義之可為、而 不忠与不義之不 為也、万善万悪皆亦然。 是又何嘗与聖人異也 哉。故中庸曰。「夫掃 之愚、可以与知焉、 夫婦之不肖、可以能行 焉。」然其無気尽 性之真修者、則臨 危懼之事、接喜 楽之物、乃耳目為之 昏乱、而心亦喪其明 矣。於是視聴与思惟 一時顛倒了。故至於不白為白、以赤為赤、 而鹿為馬、馬為鹿、不清為清、以濁為濁、 而笛為瑟、瑟為笛、而 孝不敢為、不孝敢為、 悌不敢為、不悌敢為、 忠与義不敢為、不忠 与不義敢為也。視聴 思惟、終与聖人相反 如霄壤矣。

 天下の目ある者、白を以て白となし、赤を以て赤となし、 鹿を見て馬と思はず、馬を視て鹿とは思はぬ。耳あるもの、 清を以て清となし、濁を以て濁となし、笛の音を聴いて瑟の 音とは思はず、瑟の音を聴いて笛の音とは思はぬ。口に於て も鼻に於ても皆また其の通り、総て其の有りのまゝを感ずる ものである。此の点に於ては、何人と雖も何等聖人と異なる 所のあらう筈が無い。  更に天下の心あるもの、孝の為すべく不孝の為すべからぬ ことを知ッて居る。悌の為すべく不悌の為すべからぬことこ とを知ッて居る。忠の為すべく不忠の為すべんらぬことを知ッ                      かは て居る。是の点に於ても亦、何人と雖も聖人と異る所のあら                      (一) う筈が無い。故に中庸にも斯う言うてある。『夫婦の愚も以                           ○ ○ て与り知るべく、夫婦の不肖も以て能く行ふべし』と。然も ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○   ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 其の気を養ひ性を尽すの真修なきものは、危懼すべき事に臨 ○   ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○   ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ み、喜楽すべき物に接すれば、耳目之が為に昏乱して心亦其 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○   ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○   ○ ○ ○ ○ の明を喪うて了ふ。斯くて其の目は正しく見えず、其の耳は ○ ○ ○ ○ ○ ○   ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 正しく聴えぬ。考へ思ふこと亦一時に顛倒して了ふ。故に赤 いものも赤くは見えず、白いものも白くは見えぬ。鹿が馬に なッたり、馬が鹿になッたりする。清きも濁り、濁れるも清 く思はれる。笛の音が瑟に聞えたり、瑟の音が笛の音に聞え たりする。孝敢て之を為さず、不孝反ッて之を為し、悌敢て 之を為さず、不悌反ッて之を為し、忠敢て之を為さず、不忠            ・・・・・・ ・・・ ・・・・ 反ッて之を為すに至る。斯くて視る所、聴く所、思惟ふ所、 ・・・・・・・・・・てん・・・・・・ 終に皆聖人と相反する霄と壤との如くなる。


『洗心洞箚記』
(本文)その149




(しつ)
中国雅楽の弦楽器












(一)の説明なし


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