天下之有 目者、以
白為 白、以 赤為
赤、視 鹿不 為 馬、
視 馬不 為 鹿。有 耳
者、以 清為 清、以
濁為 濁、聴 笛不 為
瑟、聴 瑟不 為 笛、
於 口鼻 皆亦然。此何
嘗与 聖人 異也哉。而
天下之有 心者、知 孝
之可 為、而不孝之不
可 為也、知 悌之可 為、
而不悌之不 可 為也、
知 忠与 義之可 為、而
不忠与 不義 之不 可
為也、万善万悪皆亦然。
是又何嘗与 聖人 異也
哉。故中庸曰。「夫掃
之愚、可 以与知 焉、
夫婦之不肖、可 以能行
焉。」然其無 養 気尽
性之真修 者、則臨 可
危懼 之事 、接 可 喜
楽 之物 、乃耳目為 之
昏乱、而心亦喪 其明
矣。於 是視聴与 思惟
一時顛倒了。故至 於不
以 白為 白、以 赤為 赤、
而鹿為 馬、馬為 鹿、不
以 清為 清、以 濁為 濁、
而笛為 瑟、瑟為 笛、而
孝不 敢為 、不孝敢為、
悌不 敢為 、不悌敢為、
忠与 義不 敢為 、不忠
与 不義 敢為 也。視聴
思惟、終与 聖人 相反
如 霄壤 矣。
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天下の目ある者、白を以て白となし、赤を以て赤となし、
鹿を見て馬と思はず、馬を視て鹿とは思はぬ。耳あるもの、
清を以て清となし、濁を以て濁となし、笛の音を聴いて瑟の
音とは思はず、瑟の音を聴いて笛の音とは思はぬ。口に於て
も鼻に於ても皆また其の通り、総て其の有りのまゝを感ずる
ものである。此の点に於ては、何人と雖も何等聖人と異なる
所のあらう筈が無い。
更に天下の心あるもの、孝の為すべく不孝の為すべからぬ
ことを知ッて居る。悌の為すべく不悌の為すべからぬことこ
とを知ッて居る。忠の為すべく不忠の為すべんらぬことを知ッ
かは
て居る。是の点に於ても亦、何人と雖も聖人と異る所のあら
(一)
う筈が無い。故に中庸にも斯う言うてある。『夫婦の愚も以
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て与り知るべく、夫婦の不肖も以て能く行ふべし』と。然も
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其の気を養ひ性を尽すの真修なきものは、危懼すべき事に臨
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み、喜楽すべき物に接すれば、耳目之が為に昏乱して心亦其
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の明を喪うて了ふ。斯くて其の目は正しく見えず、其の耳は
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正しく聴えぬ。考へ思ふこと亦一時に顛倒して了ふ。故に赤
いものも赤くは見えず、白いものも白くは見えぬ。鹿が馬に
なッたり、馬が鹿になッたりする。清きも濁り、濁れるも清
く思はれる。笛の音が瑟に聞えたり、瑟の音が笛の音に聞え
たりする。孝敢て之を為さず、不孝反ッて之を為し、悌敢て
之を為さず、不悌反ッて之を為し、忠敢て之を為さず、不忠
・・・・・・ ・・・ ・・・・
反ッて之を為すに至る。斯くて視る所、聴く所、思惟ふ所、
・・・・・・・・・・てん・ ち・・・・・・
終に皆聖人と相反する霄と壤との如くなる。
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『洗心洞箚記』
(本文)その149
瑟
(しつ)
中国雅楽の弦楽器
(一)の説明なし
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