Я[大塩の乱 資料館]Я
2015.4.7

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『通俗洗心洞箚記』
その84

大塩中斎著 下中芳岳(1878-1961)訳

内外出版協会 1913

◇禁転載◇

上巻 (80) 七五 偉大なるかな聖人の徳(2)

管理人註

今提一事以験之。 趙高欲乱、恐羣 臣不聴。乃先設験、 持鹿献於二世曰。 「馬也」。二世笑曰。 「丞相誤耶、謂鹿為 馬。」問左右。或 黙。或言馬以阿順 趙高。或言鹿者。 高因陰中諸言鹿者法。後羣臣皆恐 高矣。夫事物之移 心目、於此可見矣。 若聖人而処此事、 則与平生亦奚異。 只謂鹿而不君 与心而己矣。或曰。 「彼羣臣未必皆言 馬。或有黙者焉。 或有径言鹿而不君与心者焉。 而在其不君与 心者、則趙高陰中 之以法。以法則必 見殺矣。雖聖人 径言鹿、乃与彼同 見殺矣耶、」曰。 「夫黙者与馬者、 特五十歩百歩間焉耳。 不深弁。至 鹿而見殺者、不弁則、誰解其惑 哉。吾請又説之。趙 高之無君、孰与魯 三子之無君、当陳 恒弑其君也、孔子 沐浴朝於君曰。 「陳恒弑其君、謂 討之。」因君不可、 又之三子告焉。三 子雖可、然不孔子。却因孔子 之告、消沮其無君 之心。則孔子雖斉之事、而誅 三子之心厳矣。

        今、一例を提げて之を証拠立てよう。秦の始皇帝の臣に趙 高といふがあッた。秦皇帝の寵あるを恃みて専横を極めて居 たが、第二世の位に即くに及び、遂に叛逆を企てやうと考ふ るに至ッた。けれども、群臣中果して之に同意するものあり や否や、若しありとすれば、幾人あらうかと考へた。で、先 づ之を験さんが為に、一策を案じた。其の策といふのは斯う である。或る日、鹿を持ッて朝し、二世皇帝の御前に進み、 「斯かる馬が手に入りました」とて献上した。何故、斯様に したかといふに、馬を鹿といふことに就いての群臣の態度如 何に由ッて、其の心を引いて見ようといふのである。二世皇             おまへ 帝は『何、馬だ、そりや、丞相の誤ぢやろ。是は鹿ぢやない か。鹿を見て馬だとは如何いふ訳ぢや』と笑ふ。趙高は押し 返して『いえ陛下、是は馬でござりまする』と言ッた。二世 皇帝は左右を顧みた。『皆は之を何と思ふ、趙高は之を馬ぢ やといふが』と問ふ。趙高の思ッた通り、群臣の気を引く時 が来た。趙高は、注意して其の態度を見た。其の答を聞いた。 或るものは黙して何とも言はぬ。或るものは、馬だと言ッて    へつら 趙高に阿順ふ。或るものは、鹿だと言ッて其の見たまゝを正                         ひそか 直に答へた。趙高は、其の鹿だと正直に言ッたものを陰に極 刑に処した。其の後、群臣皆趙高を恐れるやうになッたとい ふ。時に臨んで事物の心目を移す、此の一事を以ても知るこ とが出来る。若し聖人にして此の事に処するならば果して如 何するであらうか。言ふまでもなく、平生と何等異る所が無 いであらう。即ち唯、鹿だと言ッて、君と己が心とを欺かぬ であらう。すると、或る人は言ふかも知れぬ、「彼等群臣、 未だ必ずしも皆馬とは言はなんだ。或るものは黙して居た。      ますぐ 或るものは径に鹿と言ッて君と己が心とを欺かなんだ。然も、                      ひそか     あた 君と己の心とを欺かなんだ者に在対して趙高は陰に之に中る に法を以てしたではないか。法を以てせらるれば必ず殺さるゝ。                  ますぐ 如何に聖人なればとて、斯かる場合、径に鹿だと謂ッて、彼 等欺かなんだ群臣のやうに殺さるゝの愚を敢てするであらう か。」と。予は思ふ、其の黙せると、馬といへるとは、五十 歩百歩の間のみ、其の趙高に諛ふ心あるは同じである。故に これは深く弁ずるまでもない。唯、鹿だと言ッて殺されたも のに就いては、茲に聊か弁じて置かんければならぬ。でない と、こゝに挙げたやうな疑惑を抱く人も少なくなからうと思                  なみ ふ。予の考は斯うである。趙高の君を無したると、魯の三子             が君を無したるとは頗る酷く似た事実である。故に魯の三子 が君を無したる時の孔子の態度を考へて見れば、斯かる場合 に於ける聖人の態度如何を知ることが出来る。魯の三子の君 を無した事実は斯うである。斉の相陳恒といふものが、其の 君簡公を舒州に弑したとの報が魯に伝ッた時、孔子は、沐浴 斎戒して君前に朝した。そして言ッた。『陳恒其の君を弑せ り、謂ふ之を討たん。』と。当時、魯は斉の為に弱められて 居た。故に孔子は、斉の内乱を機会に之を討たうと言うたの である。処が、哀公は、同意しないで「三子に告げよ」との 命。三子といふは、当時の魯の強臣、李孫、孟孫、叔孫の称 である。で、孔子は、君命なればとて、其の事を三子に謀ッ            た。けれども、三子は可かなんだ。可かぬも道理、三子は当 時、既に君を無するの心あり、斉の陳恒とは、陰に勢声相倚 れる間柄であッた。孔子は固より此の事を知ッて居た。けれ ども、君命であるから、躊躇なく其の事を告げた。三子はひ どく驚いた。若し、孔子が通常の人物であッたなら、三子は 恐らく之を殺したかも知れぬ。けれども、孔子を害すること は出来なかッた。孔子を害し得なんだのみならず、孔子の告                   ひるがへ げたこちによッて、其の君を無する心を消沮した。して見れ ば、孔子は仮令、己が立言「斉を討つ」の事は実現し得られ なんだにもせよ、君を無する三子の心は厳として之を誅し得 たと言はねばならぬ。


『洗心洞箚記』
(本文)その149







































































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