Я[大塩の乱 資料館]Я
2015.5.8

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『通俗洗心洞箚記』
その90

大塩中斎著 下中芳岳(1878-1961)訳

内外出版協会 1913

◇禁転載◇

下巻 (4)四 先天の学

管理人註

後天而視之、 則似理与気当 分、在先天固無 理気之可分矣。 慎独復性、便是 先天之学、而猶以 理気二、可乎。 故終身不性、 以此也

 (一)             (二)  後天的に考へれば、理と気とは分れて居るやうに見えるが、 (三)                      (四) (五) 先天的に言へば、理と気とは固より分れて居らない。慎独復 性は便ち是れ先天の学である。然るに猶ほ理と気との二つに              分けて考へようとするのは可けない。理気の二元論に囚はれ たる人の、終身、性に復し得ないのは此の為である。

    (一)後天的とは、「生れて後の経験上から」の意。こゝ   では、経験上の事実に就いて考へればの意。 (二)理と気とは用ひ所に由ッて意味の違ふことがある。   こゝでは、理は形而上の道理、気は形而下の物質と   考へてよからう。   (三)先天的とは、「生れる時から具ッて居るもの」の   意。こゝでは、「経験し得ない実在上から」の意。 (五)復性といふのは、人間の本然の性にかへること。   其の方法としては独を慎みて、自己の良心の声に聞   き、自分の本質が何であるかを考へねばならぬ。そ   れを (四)慎独といふ。即ち復性は目的、慎独は手段である。   全体をつゞめて言へば、此の眼に見ゆる世界は理と   気の二つから成ッて居るやうに見えるけれど、理も   気も、一歩深く入れば、同一実在、即ち太虚たる点   に於ては違ひはない。而して復性、慎独の学は、此   の根本原理たる一実在に到達せんとする学問だから、   其の原理を主として考へねばならぬ。でないと、真   に其の目的(即ち復性)を達することが出来ぬとい   ふのである。

『洗心洞箚記』
(本文)その163



 


『通俗洗心洞箚記』目次/その89/その91

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