自後天而視之、
則似理与気当
分、在先天固無
理気之可分矣。
慎独復性、便是
先天之学、而猶以
理気為二、可乎。
故終身不能復性、
以此也
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(一) (二)
後天的に考へれば、理と気とは分れて居るやうに見えるが、
(三) (四) (五)
先天的に言へば、理と気とは固より分れて居らない。慎独復
性は便ち是れ先天の学である。然るに猶ほ理と気との二つに
い
分けて考へようとするのは可けない。理気の二元論に囚はれ
たる人の、終身、性に復し得ないのは此の為である。
(一)後天的とは、「生れて後の経験上から」の意。こゝ
では、経験上の事実に就いて考へればの意。
(二)理と気とは用ひ所に由ッて意味の違ふことがある。
こゝでは、理は形而上の道理、気は形而下の物質と
考へてよからう。
(三)先天的とは、「生れる時から具ッて居るもの」の
意。こゝでは、「経験し得ない実在上から」の意。
(五)復性といふのは、人間の本然の性にかへること。
其の方法としては独を慎みて、自己の良心の声に聞
き、自分の本質が何であるかを考へねばならぬ。そ
れを
(四)慎独といふ。即ち復性は目的、慎独は手段である。
全体をつゞめて言へば、此の眼に見ゆる世界は理と
気の二つから成ッて居るやうに見えるけれど、理も
気も、一歩深く入れば、同一実在、即ち太虚たる点
に於ては違ひはない。而して復性、慎独の学は、此
の根本原理たる一実在に到達せんとする学問だから、
其の原理を主として考へねばならぬ。でないと、真
に其の目的(即ち復性)を達することが出来ぬとい
ふのである。
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『洗心洞箚記』
(本文)その163
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