理与 時与 勢、皆上
之所 為也。豈天云
乎哉。而漢文雖 明
君 、謙 譲於大臣 、
而不 用 識者之言
益 乎世 。則使 理
与 時与 勢全任 于
天 、而以不 自任
者也。其治效与 三
王 不 同、蓋在 此
矣。而以 賢称 乎
世 、則亦猶如 士
不 志 於聖学 、而
媚 於世 以無 非刺
者 也。故陸象山先
生謂 之郷愿 、是
非 無 見。而世儒
驚 其説之出 于意
外 、却貶 先生
然立 説。嗟夫、
是亦郷愿也哉。
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(一) つく
理と時と勢とは皆上にある人君の為る所である。之をしも
天だと言ひて、長上者自身何等省みる所なきは宜しくない。
漢の文帝は明君ではあッたが、余りに大臣に対して謙譲に過
ぎて、識者の言の世を益するあるをすら用ひなかッた。斯の
如きは、理と時と勢とをして全く天に任せて、自ら為すある
の力を信じなかッたものだと言はなくてはならぬ。文帝の明
(二)
を以てして、其の治效の三王と同じからぬは主として此の点
よ
に因由すると言ッて可からう。而も賢を以て世に称せられた
るを以て、之に事ふるの士、多くは聖学に志すなく、徒らに
世に媚びて以て誠意なきものゝ如くであッた。されば陸象山
先生の之を郷愿と言ひたる、決して無定見ではなかッたので
ある。文帝を以て賢明の主とのみ信じ居たる世の儒者、其の
おと や か ま し
説の余りに意外なるに驚いて、却て先生を貶しめ、 然く
も反対の説を立てたのである。あゝ此の如き儒者亦郷愿たる
を失はぬ。
(一)こゝの理は通俗の意味の理窟で、理気の理では無
い。
(二)三王は夏の禹王、商の湯、周の文王武王を指す。
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『洗心洞箚記』
(本文)その168
郷愿
(きょうげん)
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