臨利害生死之境、
真不起趨避之
心、則未至五
十乃知天命也。
而動其心以趨避
者、則雖百歳老
人、実夢生焉耳。
比等命之知不知、
固無論矣。是故
人不可以不早
知天命也。
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利害生死の境に臨んで真に趨避の心が起らぬならば、孔子
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の所謂五十に至らずとも、其は乃ち天命を知れるものと謂ッ
○ よ ○
て可い。而して其の心動きて趨避する者の如きは、たとひ、
百歳の老人たりとも、其は実に夢の生である。此等の人に対
しては、命を知る知らざる固より論ずるまでも無い。されば、
人は、必ずしも孔子の所謂五十を俟ッて天命を知るを要せぬ。
一年、一日たりとも早く天命を知りて、安住の境地に達し、
以て意義ある生活を営まんければならぬ。
利害死生の超脱是固より容易の業では無い。而も之を超
脱せざる限り、人は七尺の小我の捕虜たるに止まる、之
を超脱して始めて人は太虚の徳を体得し得るのである。
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『洗心洞箚記』
(本文)その174
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