質勝文者、雖不事
多聞多見、而良知不
失乎内。猶如石中
火、特未顕於用耳。
故曰。「野」。文勝質
者、嘗不信良知而博
識意見、只馳於外、
猶如燬原火。既失
本体矣。故曰。「史。」
若夫従事精一執中之
学者、則不失良知
於内、而致之於事事
物物、発皆中節矣。
雖不欲彬彬得乎。
故曰。「君子。」
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(一) ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
質の文に勝る人は、聞見の知は多からずとも、而も良知を
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○(二)○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
内に致して失はぬ。例へば石中の火のやうなものである。特
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に其の力を外に顕はしては居らぬが、必要となれば、何時で
○ ○ ○ ○ ○ あらは ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
も其の力を発揮すことが出来る。斯様な素朴で飾り気の無い
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人を野といふ。
(三) ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
文の質に勝る人は、畢竟、良知の心中に潜めることを自覚
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せぬ人である。意見縦横、識見たとひ該博であッても、たゞ
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外に馳するの一方で、一向に深さも奥行きも無い。例へば、
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原を燬く火の如きものである。一時は花々しく賑はしくても、
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ しま ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
既に過ぎ去れば其の本体を失ッて了ッて、何等の力をも残さ
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ない。斯様な実意の無い皮相的虚飾的な人を史といふ。
(四) ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
精一執中の学に従ふものは、良知を内に失はず、更に進ん
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で、事事物物、其の良知の光に照して活動するが故に、其の
○ ○ ○ ○ ○ ○ あた ○ (五)○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
言動悉く節に中る。彬々たらんことを欲せざるも而も彬々た
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らざるを得ない。斯く内に存する力の外に発はるゝは質もあ
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り文もあるの君子である。
○
(一)見かけはさほどでなくても心根の立派な人―質は
○
内的精神、文は外的装飾。
(二)石は鑚れば火が出る、いつでも火が出るから、石
中の火といふ。
(三)言葉遣ひや身のこなし、さては衣服装飾などは立
派だが精神的生命の乏しい人。
(四)精一執中は儒教の根本原理である。「天一を得て
以て清、地一を得て以て寧、人一を得て以て貞、鬼
神一を得て以て霊、一の徳たる至」とあるが、精一。
「天の暦数爾が身にあり、允に其の中を執れ」とあ
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るが執中。こゝで、精一執中の学といへば聖賢の学
と同意義である。
(五)文と質と両つながら具はれる貌。
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『洗心洞箚記』
(本文)その179
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