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平八郎は養祖父の没後、留まりて与力の業を努めたり。年二十六.偶ま文
政三年十一月伊勢山田奉行より転じて大阪東町奉行となれるものあり。高井
山城守実徳即ち是なり。彼れ亦凡庸の吏にあらず、鑑識に富み、私に平八郎
の才気絶倫なるを看破し、抜擢して吟味役とせり。平八郎は斯くて大いに其
驥足を伸すを得たりき。当時、大阪の吏僚不法無状を極めて、愛憎に依つて
刑罰を加減し、金銭に依つて、生殺を取捨するの風ありければ、市井の民、
吏人を畏忌すること尚、蛇蝎の如し。平八郎即ち其の弊風を一掃せんと欲し、
邪を折り、正を救ひ、奸を懲し、よく道を立てゝ大いに刷新の実を挙げ、流
弊を矯正するを得たり。然れども好事常に魔多しとかや、彼れが治積大いに
挙り、其名声遠近に震動するに至るや、小人獰徒の嫉妬之れに相伴ひ、曩に
衆人の怨府となりて、或は不慮の禍を蒙らんことを慮り、辞表を呈して蟄居
せんと試みたることすらありしが、山城守強いて之れを許さず、再び事に従
はしめたれとも、後、山城守齢已にし七十余に及ぶを以て骸骨を乞ふに致到
るや、彼れも亦之れに殉じて遂に致任し、養子格之助をして其の職を継がし
めたりき。平八郎時に年三十有七。一詩あり曰く、
昨夜閑窓夢始静。
今朝心地似僊家。
誰知未乏索交者。
秋菊東籬潔白花。
彼れは是より閑散の身とはなりつ。されば専ら洗心洞に籠り学を講じ、書
を著はし、併せて子弟を教授したりき。平八郎の著書頗る多し。主なるもの
を掲ぐるに左の如し。
△古本大学刮目七巻 △洗心洞剳記三巻 △洗心洞箚記附録抄二巻(写本)
△儒門空虚聚語三巻 △増補孝経彙註三巻 △洗心洞学名学則一巻 △古
本大学旁註一巻 △大学或増註 △奉納書籍聚跋一巻 △洗心洞詩文二巻
△学礎若干巻(写本)
平八郎の門人は一時六七十名にも達したり。其の前後を合すれば千余名に
も上るべし。其の主なるもの左の如し。
△宇津木矩之丞 △松浦千之 △湯川用誉 △松本道済 △白井尚賢
△橋本含章 △磯矢子行 △岡本大仮 △渡辺正邦 △分部天行
△志村周次 △大塩格之助 △林良斎 △大井正一郎 △秋田精蔵
△稲川某 △河田白斎 △匹田竹翁 △山口平吉 △渡辺重左衛門
△瀬田犀之助 △小泉延次郎 △橋本忠兵衛 △橋本梶五郎
△田能村直人 △田結荘千里 △分部簡斎
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驥足
(きそく)
才能のすぐれた
人物
幸田成友
『大塩平八郎』
その12
曩(さき)に
骸骨を乞ふ
辞職を願い出る
石崎東国
『大塩平八郎伝』
その43
幸田成友
『大塩平八郎』
その56
幸田成友
『大塩平八郎』
その77
渡辺重左衛門
渡辺良左衛門
瀬田犀之助
瀬田済之助
小泉延次郎
小泉淵次郎
橋本梶五郎
近藤梶五郎
田能村直人
田能村直入
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