Я[大塩の乱 資料館]Я
2017.11.24

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「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩平八郎を憶ふ」その3
白石重

『日本農村論』啓文社 1926 所収

◇禁転載◇

三 〔学説〕          管理人註

 大塩平八郎は自ら実践窮行之れ務め、其の子弟を教導する極めて厳なりき。 彼れは自ら学名学則中には孔孟学の名称を用ゐたれども、其実陽明学たりし に外ならず、彼れは師伝あるにあらず、全く独学以て一流の学派を樹てたる ものなりき。初め中江藤樹王陽明学を講じてより純潔玉の如き正義を抱き、 宋列乾坤を貫く底の精神を有する学者志士は相継ぎて輩出し、国民の心性を 溶鋳陶冶し来れるが、一度三輪執斎、中根東里等没してより茲数十歳、絶え                              ・・・・・ て王通を主張するものなかりき。此時、独り大塩平八郎起ちて、覇道の専横 ・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ を嘆き、王通の復古を叫ぶもの真に故なしとせざるなり。されば、彼れは徳 行を先んじて、学問を後にせり、心即ち是れ理なりとせり。斯くて知行合一 を主張したりき。彼れは死生に関しては恰も仏教の涅槃に類するが如き説を 持したり。彼れは、私欲の為めに塞がるゝなければ、乃ち太虚に帰するを得 べきを信じたり。私慾の情を一掃し来れば、即ち良心の光煌々として発射し 来たる、是れを仁と為す、仁は永遠に滅せざるものなり。彼れ其著剳記に曰 く、  生を求めて以て仁を害することなし。夫れ生は滅あり。仁は太虚の徳にし  て、而して万古不滅のものなり。万古不滅のものをの舍てゝ、而して滅す  ることあるものを守るは、惑なり。故に志士仁人彼れを舍て此れを取る。  誠に理あるかな。常人の知る所にあらざるなり。  と、彼にあっては、詞章記誦は学問の目的にあらざりき。寛政以後の学者、 詩文に耽けらざれば、考証に流れ、道徳を以て自ら任ずるの気概あるもの寥 々とし暁天の星の如し。此の時に当りて平八郎独り超然として、  聖学の要、読書の訣、只放心を求むるのみ。此外更に学なし。亦爰ぞ疑ふ  に足んや。  と痛語す。真に万緑叢中紅一点の感あり。彼れは唯々道徳を修めて聖賢の 域に達せんと冀ふのみ。富貴利達の如き彼れの志を奪ふに由なきなり。彼れ は多くの知己を有せざりしが、最も尊重せしは頼山陽、近藤重蔵又は佐藤一 斎の諸氏なりき。その近藤重蔵と相会するや、東峯西峯対峠なるの慨あり、 展雲自ら湧起するの趣ありき。山陽を思慕するの情如何に切なりしかは、山 陽が血を吐いて病革ると聞くや、彼れ直ちに京師に之を訪ふ。時已に遅く山 陽永眠の後なり。  知我者莫山陽若也。知我者即知我心学者也。  雖知我心学則未尽剳記之両巻。而猶如尽之也。  と詠ぜり。以て彼れの友情を知るべし。







中根東里
(1694−1765)
江戸時代中期の
儒者。13歳で出
家し、禅を学ぶ。
江戸で荻生徂徠
に師事して還俗
のち室鳩に入門。
陽明学に傾倒し
下野で知松庵を
開く。





幸田成友
『大塩平八郎』
その69













『洗心洞箚記』 (本文)
その13


舍(す)てゝ















『洗心洞箚記』 (本文)
その268







冀(こいねが)ふ








革(あらたま)る


幸田成友
『大塩平八郎』
その83


雄山閣編「大塩平八郎」
その10
 


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