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扨も大塩平八郎は、諸事万端に行渡り、御裁許筋等、聊も曲れる事なく、廉
いひあへ
直なるは誰人ともに是を誉、当時の才智と言合り、時の奉行高井山城守殿、
になきもの さげがたな ゆる
渠が行状を感じ給ひ、重く用ひて無二者と、役所へ制禁の提刀をも免されけ
ゆく
る程の事なりしが、時到らずして奉行方も段々替り行に付き、我と慢ずるの
さかしらそね かまび
心も出来、また人々の讒言嫉みに事喧すく、平八郎はつら/\世の有様を考
とて をは しか
へしに、斯ては迚も勤め卒せじ、功なり名遂て身退くに如じとこそや思ひけ
ん、招隠集といふ書を著し、其身は隠居の願ひをぞ奉行の許へ差出しけるに、
早速御聞済是ありて、養子格之助へ家督相続仰付られたりければ、則ち其身
は致仕しける、
其招隠集の中の詩に、
こじやうえんばかへり いまだかへらず こうなくしてぎよてうまたまさにひなるべし
湖 上 煙 波 帰 未 帰 無 功 漁 釣 亦 応 非
さいばいにちほうさいごのこうをたすけて こんしう ともにのするかい かのい
頼 任 地 方 済 時 効 今 秋 共 戴 芥 荷 衣
斯なん詩を吟じ、其身は明の王陽明が心学を教示し、号を中斎といひ、又洗
しよう
心洞と称し、印には聖朝吏隠の四字を刻し、常に門弟を集めて軍学を講じ、
また武芸を教授なし、人々の尊信浅からず、常に節倹を旨として、頗る富有
い つ
の身なりしも、何時の頃よりか、稍(やゝ)自負高慢の心を生じ、今や御世も
泰平にて、国家の為には慶賀すべきも、世の武家なる者、武事に怠り、御政
たづさは
事の上に参与る諸役人等、賄賂に耽り、上に道なく下に礼なし、且や無学の
小人どもに妨げられて罪に陥り悲歎する者少なからず、
ゆゐめい すつ
我今亡父が遺命あれど、是を捨るも世の為に名を遺すこそ却て孝なり、又憎
やつばら
みても余りあるは、町家富有の奴原なり、渠等武士の困窮なすを直下なすの
みならず、皆己等が財有るに誇り、失敬なす事常に多し、然れど此事他なら
じ、金銀の為に制するを得ず、是全くは武士道の衰へしより起る者なり、因
て、今我柔弱の輩、驕奢に長ずる徒の為に、目を驚かす程の事を為さんが、
やつら
夫に付ても、大坂城は日本の咽喉なれば、今城中は女子輩にひとしき輩が守
るぞ、幸ひ是を乗取花/゛\しく天下の勢を引受て、一戦なして死せんには、
天下へ対して不忠に似たれど、却つて武家を励さば、忠義の一ツともならん、
はんど
老て病床に死せん事、士たる者の本意にあらず、然れば半途に破れんは、此
おもて ひそか
上もなき恥辱なり、と陽に隠逸を専らとし、陰に軍術に心を委ね、無事に月
くはだて
日を送りけり、此企のある事を、誰人ともに知らざれば、大坂市中の町人等
は、平八郎が退身せしを、親に離れし心地して、皆々是を惜みあへり、
いへ
爰に平八郎が妾にゆふと言る者あり、旧新町の遊女なりとか、未だ其齢三十
も越ぬに、剃髪なして召使はるゝ、仔細を如何にと尋ぬるに、平八郎が勤役
中、或町方の者よりして、いと六ケ敷願ひ筋ありしを、取次遣はせしに、彼
いた むくひ
者甚く歓びて、何がな平八郎へ報酬の為贈物せんと思へども、潔白にして一
紙も受ず、然りとて甚く世話になりしを、其儘にして打過んも心よからぬ事
かのもの もと たいまい
なればと、彼者愛妾のゆふの許へ玳瑁の櫛を贈りけるに、ゆふは兼々望の品
いと ふ
とて最歓びて是を貰ひ、又なき物と秘蔵して居しを、或日平八郎が風と見付
よびたゞ か
てゆふを呼糾すに、ゆふは包まん様なく、彼の貰ひし訳を委しく噺せば、篤
と聞て大いに怒り、右体の事是有ては我役義にも拘はる事とて、ゆふに暇を
遣はさんとしけるに、ゆふは深く歎き、其罪を謝し詫けれど、平八郎は決し
て免さず、併し汝此家に永く仕へんとの心ならば、髪を剃て尼となるべし、
然あらば許して是迄通り差置べし、と言けるにぞ、
まだみそじ
ゆふは泣々其意に従ひ、未三十にも足ずして、緑の黒髪剃落し、尼となりて
仕へけるに、此事を人聞伝へ、大いに恐れ感じ入、其潔白を称しあへりと、
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『天満水滸伝』
その12
幸田成友
『大塩平八郎』
その49
頼任
頼佐 か
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