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さる
然からに、平八郎は追々世の中の事どもの堪忍び難き事のみ多く、兎角に御
政事に不快を抱き、朝令暮替を誹謗して慷慨悲憤止む時なく、殊に此頃は凶
おひ
年続きて米価日を逐沸騰し、商家も農家も一同に困窮するを頻に嘆き、是等
ども
も畢竟御制度の正しからざる故なりとて、先大坂の窮民輩の饑寒に迫るを救
はんには、鴻池米平三井岩城が貯ふ処の巨万の金を過分に取上、夫々へ分ち
与へられんを、隠居の身ながら悴格之助と連署して、跡部山城守どのへ上書
せしに、奉行は是を用ひられず、
爰において平八郎は大いに怒り憤り、奉行山城守どのを不明なりとし、其無
たちまち
得心を恨みけるが、此処に忽地激発して、先貧民の悩める者を救はんものと
たねんらい
て、多年来貯へ置し書籍をば、一巻だも取遺さず、北久宝寺町の書林にて、
うりわた
河内屋新次郎といふへ沽却し、是を一銖金と両替し、六百二拾両を彼書林、
みなから あまね
河内屋新次郎に取扱はせ、悉皆施し尽しけれど、窮民多き時節とて、普く行
渡る程にも至らず、残念に思ひ居たりしとぞ、
元来饑饉に及びしは、去年天保丙申の春より霖雨降続き、彼の三伏の盛度の
ま え
時だも、麻衣を着する日は稀にて、諸国一体に冷気なれば、稲生立ず、麦稗
等其他の雑穀も茂りやらず、穂の出べき頃、関東には七月十八日の大風雨に
て、大木を抜き、人家を倒し、其六月の十五日は、奥羽の間、暴風雨関東よ
や
りは猶烈しきも、天の怒り猶息まず、同く八朔の暁頃、再び関東大風雨にて、
北の方より吹起り、西南東海道筋に吹及び、又都近き地方には、江州よりし
て東へと、同月十二日大風雨起り、古今未曾有の凶歳にて、民家も潰し、樹
いとま あゆま
木を倒す、其数枚挙に遑あらず、是が為諸道の旅行止まりて、人歩行ず、田
あらは
稲悉く流蕩して、終に饑饉の惨状を現出す、
爰において踊躍して、米一升の価三百文に及び、餓死する者道路に充満し、
目も当られぬ有様なり、
執政方より諸役人まで、是を愁ひて評定せられ、餓者を憐み、米銭を賜ひ、
又富有の者は金銀を散して、或は己れが地面の者、また隣町にまで施し及ふ
そも/\
もなか/\救済の道立ず、抑々今年の饑饉といへるは、全く去年一歳の凶作
ま へ
に因て来るにあらず、十年以前より引続き違作せし上、五ケ年前(天保四癸
巳年)八月朔日の大風雨にて、関東殊に不作にて、一升二百五十文の価に至
とき
る、斯の如きの凶年ゆゑ、米価は更なり、諸式の価一度上りて下る期なく、
こ
唯大坂のみ米価一升に付百五十文より二百文を限りとし、這は、先奉行矢部
よる
駿河守殿、政令宜しきに因ものにて、彼大坂にて来秋までの飯米乏しからね
ばなりとぞ、
夫に引替、地は隔たらねど、京師は、常に大坂より積送るべき米穀と、江州
路より牛車或ひは人の肩を以て運ふ米をば日用に遣ふ仕来り成し処、今年は
近江も不作せしゆゑ、京師へ米を少しも送らず、大坂よりして二千石ヅゝ日
々運送するの外は、余分の米を送らされば、ます/\饑饉に及びしに、京都
およそ
奉行より米屋どもへ、其在米を割渡して、凡人別に当壱人前米二合を以て限
りとす、
爰に江戸は大都会ゆゑ、米穀其他の諸色とも運漕自由なりけれど、六十余州
の人民が輻輳するの土地なれば、其人員も京坂に増して多きに、饑渇も強く、
あまた
然れば当時の御勘定奉行矢部駿州殿、大坂の米穀夥多を江戸表へ運漕したる
は、大坂に米穀乏しからざるを執政方へ言上て、斯取計はれしものなりしと、
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『天満水滸伝』
その13
幸田成友
『大塩平八郎』
その100
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