Я[大塩の乱 資料館]Я
2018.2.6

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「大塩の乱関係論文集」目次


『今古実録大塩平八郎伝記』

その16

栄泉社 1886

◇禁転載◇

 ○宇都木敬治平八郎へ諌言の事 *1

管理人註
  

是より先、洗心洞に学問修行の為にとて寄宿なし居る彦根藩士に宇都木敬治 といふものあり(一名矩之助)、 父を宇津木下総といひ、井伊家の家老職を務む、敬治、人となり、文武を嗜 み、君父に乞て、武者修行を思ひ立て、四ケ年前、小者友蔵といへるを召連、 生国彦根を出立して大坂表へ罷り越、洗心洞が名を慕ひ、大塩方へ至りつゝ、 師弟の契約を結び置き、夫より西国九州へと修行の為に立出しが、当年はハ     とき ヤ帰国の期とて、急ぎ西国を出立して、二月十七日の黄昏ごろ、大坂まで立 帰り、先大塩が宅へ着しに、平八郎も、予てより敬治が器量を見抜し事ゆゑ、             かれ 一味させんと思ひ居れど、渠昨今の弟子と言ひ、迂闊に事は談じ難し、又談 ずべき時節もあらんと扣へ居しが、今はハヤ斯の次第に立到りしかば、包む                           あか べき処にあらずと、敬治を我前に呼出し、始て一大事を打明し、一味連判な            いた           しば/\     ふるまひ       つく すべしと言ふに、敬治は甚く驚き、此程屡々大塩が挙動等に目に着るに、其          いぶか 意を得ざる事多く、訝しき事のみにして、天下の政事を誹謗なし、夫のみな らず、物事に只歎息する其有様、若やあられぬ企てをするに於ては、身に替                   て我信義を以て諫むべし、と心を決し居ける時ゆゑ、今平八郎が一言を聞て、      うつ 扨はと手を拍て、                             あまね 夫は先生には物にばし狂ひ給ふか、情なや、今天下泰平の化、普くして、徳 又深く遠く流るゝ、爰に凡そ二百余年、上古と雖も是を増んや、今其故を如 何に、といふに、                    つど 四海平治して夷狄服し、海外の珍器皆爰に湊ひ、都下の遊民糠食の者迄美服                                  かし 玉食して飽を知らず、王公貴人と差別なし、其富豪の者に至りては、玉を炊    たき き桂を焚、多くの妻妾を蓄へて、酒池肉林の遊に耽り、金銀を費す湯水の如        いふ                        かれ く、其奢侈淫逸言に堪え、是又憎むべきなれど、是も太平の徳化にして甲費    これまうけ   つまり せば、乙所得て、到底天下の融通となれど、近年諸国凶作して、当年に至り はなは 酷だしく、天下饑饉に及ぶと雖も、豈是朝政の得失に因て、天より災害を下                                やむ さんや、天は元より至大至高に、仮にも不仁ある事なし、其霖雨暴風止時な                 まはりあひあしく く、時候の調陽せざるものは、所謂廻合悪敷のみ、既に堯の如き徳ある天下                      ひでり も、洪水更に止まらず、湯王の天下も七年の間旱魃なすと聞及ぶ、先生も又、                              しよゐ 何故に数代の恩禄に飽たりとて、何ぞ是を足ずとして、彼宋賊が所為に習ひ て斯る企てをなし玉ふや、石を抱いて淵に望み、鶏卵を以て岩石を砕く譬も まのあた 目前り、必ず成功ある事なく、終には其身死刑に処せられ、先祖の血食を断 滅し、無辜の妻子をも厳刑に処せられ、其臭名を百年に遺す、豈忌はしき事    ことば      ねがは いふに詞なし、唯願くは、本善に立帰り、士道を守りて潔よく自殺なし玉ふ 上からは、家名を失はざるにも至らん、何卒思ひ止まり玉へ、 と声を励し、色を正し諌けるに、平八郎は是を聞より冷笑し、      よく          よし 如何に敬治熟聞べし、汝が言事極て善、然れど斯迄思ひ立し大事を、今更止 まらんや、一味を断る上からは、唯今一命を申受べし、誰ぞ有る、渠を討留 べし、                          なげし        おつとり と大井正一郎へ目配せしければ、心得たりと正一郎は、長押に懸し鎗押取、 宇都木敬治に打向ひ、如何に宇都木氏覚悟あれ、御手前の一命は、師の命に より此正一郎に賜はるべし、と呼はりつゝ、鎗を捻つて突掛れば、敬治は驚            ひつぱづ                めさき く色もなく、突懸る鎗を引外して、両肌脱でどつかと座し、腹を目前に突出   かく し、斯あらんとは兼ての覚悟、イザ十分に突留られよ、と言間もあらせず、 正一郎が繰出す穂先に無漸やな、胸板ガバと突貫きしに、二言と言はず死し てけり、 敬治享年廿九才、一座の面々、正一郎が手練は暫く論なきも、敬治が度胸の            やま 据りしには、驚き感じて止ざりしと、 やが                      かどいで 頓て死骸を庭へ引出し、大木の梅の枝に打懸、此は首途の血祭りなり、と皆 々之を祝せしとぞ、    【図 宇都木殺害の場 略】 そも 抑宇都木敬治は、此前夜、身を殺しても大塩を諌めんものと思ひければ、故            やら 郷彦根の父が許へ一書を遣んと、窃に認め、僕友蔵に是を持せ、彦根表へ出 立させしに、彼の僕、途中に大坂に事起りしを打聞て、心も空に急ぎ行き、 大津の駅まで来りし時、代官石原清左衛門が支配に怪しと召捕れ、大坂町奉                    ふところ 行へ引渡され、其廿二日お調べ有しに、彼懐中の手紙をば、恐る/\差出し たり   一筆申残候、追日暖和相成候処 御両親様奉始益御機嫌克可被成御座奉   恐悦候、然者私儀、先達而小倉表より申上候通り、雨天勝に候得共、日   積大体十七日之夕刻、大坂河治川へ着船仕候、四ケ年以前出立之砌、師   弟の契約仕候平八郎、天魔身に入候哉、存外之企有之、大坂町奉行を討   取、其外市中放火致し、 御城をも乗取可申抔と企候謀反に、私荷担可   致被申、強而申聞候に付、種々諌言致し候得共、申出し候事、返さぬ気   象ゆゑ、容易には承知も仕間敷奉存候、乍併此儘見捨罷帰り候而は、武   士道不相立、其上斯の如く大望相明し候事故、生ては返し申間敷、乍去   荷担仕候へば、第一御家の御名を穢し、忠孝之道に背き、師を見捨候て   は義相立不申、無拠一命を差出し、今夜平八郎始め徒党之者共へ、篤と   利害を申聞、忠孝仁義相立候様仕度奉存候、何共重々 御前樣万端宜敷   御機嫌奉願上候、   是迄厚き御慈愛を蒙り、私帰国も無程と御待も被下候儀と奉存候へば、   猶更帰国難忘事、未練之者と思召も耻入候、仕合御座候、   斯る時節に参り合候は、私武運に尽候儀と奉存候、様子具に申上度候得   共、何れ即日様子は御地へ相知れ可申候間、不申上候、大坂騒動と御承   知被下候はゞ、敬治儀は相果候儀と被思召可被下候、   最早時刻に可相成、心急ぎ荒増申上候、余は御察し奉願上候、以上     二月十八日            宇都木敬治     尚々友蔵儀、永々旅中厚世話致呉候、末一礼をも不致、相別れ申候     間、宜敷御伝へ可被下候、以上

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