Я[大塩の乱 資料館]Я
2018.1.23

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「大塩の乱関係論文集」目次


『今古実録大塩平八郎伝記』

その7

栄泉社 1886

◇禁転載◇

 ○切支丹宗門水野軍記が事

管理人註
  

こゝ 爰に京都八坂上町に、肥前国唐津浪人の水野軍記といふ者あり、其家に稲荷 明神を祭り置て、種々の奇法をなし、病気其外吉凶等の判断はいふも更なり、               あたか 何事によらず、判断をなすに、恰も響の音に応ずるが如くなりければ、諸人 是を奇として群集せり、祭る処を後に尋ぬるに、彼御法度の切支丹の邪法を 以てなすことゆゑ、何事も当らずといふ事なく、日々に繁昌なしにける、                              なか 爰に同所の、いと貧しく其日を送る八兵衛といふ者あり、夫婦の間至つて睦            ともかせぎ ましく、貧を苦にせず、倶稼して、細き煙りを立居しが、夫八兵衛は、近所 の事とて、軍記方へ折々は雇はれて出入しけるゆゑ、妻もまた常に入込て、             かせぎ       と 手伝ひなどしけるに、或日稼にとて朝疾く夫八兵衛立出し儘、夜に入ても帰                             あくるひ らざるに、妻は心も心ならず、夜の目も合さず待焦れしが、其翌日に至りて も帰り来らざるゆゑ、殊更に心配し、人を頼み所々方々を尋ぬれど、更に行 衛の知ざれば、妻の歎き一方ならず、早速に軍記が方へ来りて、何卒夫の帰                          うなづき 候やう御祈祷下さるべし、と頼みけるに、軍記は聞て打点頭、外ならぬ馴染         うけが の事とて、早速に肯ひ、神前に向ひて修法なしければ、妻も夫の帰り来らん    ひたすら 事をば只管に念じ、日々に軍記と倶に祈り居しが、其満ずるに至りて、軍記      かく       こら の言やう、斯我丹精を凝し祈るといへども、其方が夫は最早此世には亡き身            あきらむ       いひきか となりし者なれば、思ひ断念べし、と言聞すれば、妻は大いに歎き悲しみ、                         ほ い 此世に亡き者とあれば是非なけれど、余りと言へば本意なき別れ、言遺し度 事もあるべし、何卒今一度会たし、会せてたべ、若又会ふことの叶はずば、 倶に我も死なん、と狂気の如く悲しみ悶へけるにぞ、      こう                   むか 軍記も今は困じ果しが、斯てあるべき事ならねば、妻に対ひて申やう、其方              めで                さり 然までに夫を慕ふの其志、操に愛て我今行法を以て会せ遣はすべし、然なが       ぎやう ら、一大事の行なれバ、此事決して他言すべからず、と堅く誓ひを立させし         いと 後、一室に入て、最も怪き修法をぞなしけるに、不思議なるかな、此世を去             いで           いへ しと言ふ夫、忽然と顕はれ出、妻に対ひて言るやう、我此世に亡き身なれば、       さだめし 朝暮の暮しも必定便りなく思ふべし、然る上は此家の主人を師と頼み、有難         たむけ              しやう き御法を以て我に手向よ、左すれば、我速かに天道に生を替へ、地獄の責を まぬか                                うせ 免るべし、此事呉/\頼むぞよ、といふかと思へば、今迄ありし姿は消て失 にける、                          やゝ 妻は此体を見て驚き悲しみ、更に人心地もなかりしが、稍有て泪を払ひ、軍          つま 記に向ひ申やう、亡夫の申には、貴方様を師と頼み、朝暮に御法を我に手向 よ、然あらば、地獄の苦を遁れて、彼天道に生ずべしと、何とぞ私を御弟子                             くげん となし下さるゝ上は、日々に仕へ、御修法をば習ひ得て、夫の苦患をまぬが                          かれ るやう致し度候なり、と泪を流して頼みければ、軍記も渠が誠を尽し、只管                      すゝ 頼む事なれば、然らばとて、弟子となし、血を啜りて誓をなし、是より軍記 の弟子となり、一心不乱に学びける、                        みながら 軍記も頼みある者と思ひ、然らば願ひの秘伝秘法を悉皆許し遣はすべし、と           しんもん                そゝ て天帝の画像を出し、神文とて指を裂、血を出し、右の画像へ灌ぎ掛け、其 外陀羅尼加持祈祷、或は金銀を集むるの法、また妖術の印文まで、残らず伝   つく 授し悉しける、 是より毎夜、髪を散し、水を浴て、山々を遍歴するの行をなし、一心に修行 なしければ、今は思ふこと一ツとして行なはれざる事どもなく、軍記と倶に            あらた   おほく 修法なし、豊田貢と名を更め、夥多の金銀を掠取り、八坂上の町の陰陽師と 称し、吉凶判断加持等を表向の勤めとして、内実切支丹の邪法を行ひ、怪し き月日を送るうち、何時の程にか軍記は病死し、今は貢一人となりしが、彼 の貯へたる金銀をば、信仰する人に施して、我宗門へと引入るゝに、欲に目       あさはか                       まづ のなき凡夫の浅念、誠に有難き宗門なりとて、追々帰依する者多く、先摂州 西成郡川崎村なる京屋伝助が母さよ、天満龍田町播磨屋藤蔵、同居きぬを勧 め込、専ら修法をなさしめて、集むる処の金銀を、師の報恩として別ち取り、 又は貧窮なる者へ悉く分ち与へ、専ら邪法を弘めけるに、眼前の奇法に心迷          はびこり ひて、組する者追々蔓延、京都大坂其外にも、信仰の徒充満して、其行末は いざ                  おごり 卒知らず、日々に栄えて奢侈を極め、邪法を行ひ修することを、上なき宗門 と思ひ居るこそ、うたてかりける次第なり、


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