Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.4.19

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩平八郎』

その2

丹 潔

(××叢書 第1編)文潮社 1922

◇禁転載◇

第一章 生ひ立ち

管理人註
   

 平八郎の祖先は、駿州の今川治部大輔義元の一族で、波右衛門と云ふ者 であつた。今川氏の滅亡後、彼は松平甲蔵、本目権左衛門、尼崎衛門八等 の紹介で、参州岡崎の徳川家康に仕へた。小田原の役に、敵将足立勘平を 家康の馬前で刺した。その当座の褒美として、持弓を貰つた。また、伊豆 の塚本邑を采地として貰つたが、大坂の陣の時には老年のために出陣しな かつた。さうして越後の柏崎の堡陣として守つてゐた。その後、家康が第 九子義直を尾張に封じた時、名古屋に赴いて、尾張藩に属し、嫡子に其の 家を伝へた。季子は大坂を出て、東町奉行付の与力となり、其の職を継い だ。  大阪の町奉行は、京都の町奉行と同じであつた。数も二人で、役地も千 五百石だ。町奉行は東西に分れて、東は御城側で天満橋に近く、西は本町 橋に近かつた。其の下には各々三十人の与力と五十人の同心がゐた。与力 は高二百石と五百坪の屋敷で、同心は十石三人扶持と二百坪の屋敷を有し てゐた。大塩家は天満橋筋長柄町を東へ折れて、角から二軒目の南側で、 所謂四軒屋敷の一つに住んでゐた。  平八郎は寛政五年に此の屋敷で産声をあげた。幼名を文之助と称した。 七歳の時、父平八郎敬高と母とを喪つた。彼の祖先は政之丞の手一つで養 育された。  彼がまだ八九歳の頃であつた。町家の少年が喧嘩でもしてゐると、その 中に飛び込んで、 『此の与力町で喧嘩をすると、叩き殺すぞ。』  と、短い刀に手をかけると、少年達は顔色を変へて逃げるのであつた。 それで少年達は彼を見ると、恐怖を感じて直ぐ逃走して、どこかへ姿を隠 した。その為か彼には、友人と云ふ者が一人もなかつた。これが原因とな つて、彼の心は常に哀愁に打れてゐた。その反動として、叛逆的精神が旺 盛になつた。  或る日、天満の出火に行違ひを生じた彼は、出役代官篠山十兵衛の高張 提灯を踏破つて、 『天満与力大塩文之助で御座る。』  と豪語した。  祖父が老体になると、彼が御番方見習として出仕した。其の時、僅か十 三四歳であつた。彼が後年、佐藤一斎に与へた書簡に、 『父母、僕七才時、倶沒矣、故不早承祖父職也、日所接、非 赭衣罪囚、必府吏胥徒而已、故耳目聞見、莫栄利銭穀之談、与号泣 愁冤之事、文法惟是熟、條例惟是暗、向者之志、欲立而不立、依違 因循、年踰二十、』  しかし彼が二十一歳の時、立派に定町廻を勤めてゐたことは確かである。



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祖先は
「祖父」か































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