Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.5.13

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩平八郎』

その26

丹 潔

(××叢書 第1編)文潮社 1922

◇禁転載◇

第六節 友人 (1)

管理人註
   

 平八郎が学者だけあつて、友人にもやはり学者が多かつた。その他は武  士であつた。しかしその友の中で真に愛したり、真に親しくなつた者は  何人あらう。それはほんの僅かであつた。主なるものを上げて見る。 猪飼敬所――名は彦博、字は希文、敬所と号した。宝暦十一年に京都に生  れた。三冊本の『儒門空虚聚語』の欄外には、彼の校訂が出てゐる。天  保八年四月に敬所から、三谷謙譲に与へた手紙に大塩平八郎は一昨年の  夏『儒門空虚聚語校讐記』を附し、老拙を嘲り、且つその以前『洗心洞  箚記』中に、彼が学術に係らずして甚誤候。三事を申遣し能容人言や、  否を試み候処、初秋以書状其非を文り、且以狡猾之詞老拙之  口、老拙不棒腹励言之れに答へ候。其後絶交候。とある。 篠崎小竹――篠崎三島の養子で通称を長左衛門、名を弼、字を承弼。彼は  その当時の大資本家なる『鴻の池』に自ら腰を低くして接近した。金儲  けに巧だから『儒中の鴻の池』の悪評があつた。文章などの依頼に応ず  るに、先づその価を問ふのであつた。五両なら五両の文、十両なら十両  の文、と云ふように、その金額によつて、それ相当の文章を書いた。即  ち、質量ともに。換言すれば売文売名の徒であつた。幾度も資本家ども  の詩席に招待されて、幇間的態度で詩を創作した。彼は金のためなら、  何んでもやつた。誤伝かも知らないが、角力の褌に字も書いたと云ふの  で、すつかり人気を落したさうだ。彼には学問的良心も思想的節操もな  かつた。彼は大塩派騒動事件後に坂本鉉之助に向つて、かう得意らしく  批評した、  『中斎(平八郎)の学問節には驕慢癖がある。』  『如何にも御尤だが、しかし足下にも罪がある。何んとなれば、平八郎  とは年来、学問上の御交り゛ありながら、大塩氏の学説を何等の批判も  教導もなく、その儘に避けて通されたはどういふ訳です。大阪では小竹  先生が平八郎の頭を押へなければ、他に押へる者がないから、彼の驕慢  は益々増長するでせう。すれば、平八郎の驕慢を増長させた罪は足下に  あります。これは遁れることが出来ません。』  と坂本にやられたので、一言の音も出なかつたと云ふことである。小竹  はとても平八郎を導くなどの柄をもつてゐなかつた。しかし『嵐山雨景』  と題する『急雨沛然花散風。遊人去尽水西東。煙雲変幻山奇絶。付与  橋頭一釣翁。』の詩は有名である。



幸田成友
『大塩平八郎』
その81





















幸田成友
『大塩平八郎』
その84

















坂本鉉之助
「咬菜秘記」
その42


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