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佐藤一斎――名は坦、字は大道、通称捨蔵、愛日楼、また老吾軒と号した。
大阪では懐徳書院、江戸では林家に学んだ。天保四年に、平八郎が『剳
記』を贈つた時は、六十二歳であつた。
彼は有名な能文家であつた。王陽明に帰すること深く、『言志録』、
『言志仔録』、『言志耄録』、『愛日楼文集』等の著述がある。平八郎
は彼を師の如く仰いでゐた。
『御年齢強壮の御事、此後幾寓御長進可有之歟、不可測と御頼敷存
候事故、申迄も無之、愈益々御深造之処翹望之堪に候。』と、一斎は
彼を励してゐる。しかし両者は一度も面談しなかつたが、交簡だけは頻々
としてゐた。しかし『太公望垂釣図』題する『誤被文王載得帰。一竿
風月与心違。想君牧野鷹揚後。夢在渓旧釣磯』の詩は最も民衆の口に
乗つてゐる。
斎藤拙堂――名は謙、通称は徳蔵、津藩の侍読、『拙堂文話』の著者とし
て有名である。彼も平八郎とは一面識もなかつた。しかし『後赤壁図』
と題する『横槊英雄已却灰。江山更得老坡才。千秋一瞥南飛鵲。月下長
鳴化鶴来。』の詩は有名である。
角田簡――通称才次郎、字は大可、九茸と号した。岡藩の人であつた。少
壮懐徳書院に学んだ。著述には『近世叢語』『続近世叢語』等がある、
『剳記附録抄』によると、平八郎は田能村竹田を介して『剳記』を彼に
贈つた。両者は一度も面会したことはなかつた。
川北重熹――通称喜兵衛、島原藩の儒臣、彼は平八郎とは一度も面談した
事はなかつた。しかし京摂を往来して、横山生を介して面会しようと欲
したことが屡々あつた。横山生は平八郎に懇意な者であつたと見へるが、
履歴は不詳である。
吉村晋――通称隆助、字は麗明、号は秋陽、芸州の人、本姓は小田氏、一
斎の門人で陽明学を研究した。慶応二年十一月に死んだ。年七拾。
平松正愨――通称健之助、後に喜蔵、字は子愿、又は楽斎と号した。津藩
の臣。彼は伊勢の両文庫に『剳記』を奉納した。平八郎の方から訪ねた
ことがある。天保八年二月廿五日付の猪飼敬所の書簡に、『貴兄去年大
塩方に御逗留の様子』とあるが、委細が解らないのである。
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幸田成友
『大塩平八郎』
その76
幸田成友
『大塩平八郎』
その175
幾寓
「幾層」が
正しい
幸田成友
『大塩平八郎』
その80
幸田成友
『大塩平八郎』
その81
九茸
「九華」が
正しい
喜兵衛
「喜右衛門」
が正しい
横山生
横山文哉
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