Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.5.14

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩平八郎』

その27

丹 潔

(××叢書 第1編)文潮社 1922

◇禁転載◇

第六節 友人 (2)

管理人註
   

佐藤一斎――名は坦、字は大道、通称捨蔵、愛日楼、また老吾軒と号した。  大阪では懐徳書院、江戸では林家に学んだ。天保四年に、平八郎が『剳  記』を贈つた時は、六十二歳であつた。  彼は有名な能文家であつた。王陽明に帰すること深く、『言志録』、  『言志仔録』、『言志耄録』、『愛日楼文集』等の著述がある。平八郎  は彼を師の如く仰いでゐた。  『御年齢強壮の御事、此後幾寓御長進可之歟、不測と御頼敷存  候事故、申迄も無之、愈益々御深造之処翹望之堪に候。』と、一斎は  彼を励してゐる。しかし両者は一度も面談しなかつたが、交簡だけは頻々  としてゐた。しかし『太公望垂釣図』題する『誤被文王載得帰。一竿  風月与心違。想君牧野鷹揚後。夢在渓旧釣磯』の詩は最も民衆の口に  乗つてゐる。 斎藤拙堂――名は謙、通称は徳蔵、津藩の侍読、『拙堂文話』の著者とし  て有名である。彼も平八郎とは一面識もなかつた。しかし『後赤壁図』  と題する『横槊英雄已却灰。江山更得老坡才。千秋一瞥南飛鵲。月下長  鳴化鶴来。』の詩は有名である。 角田簡――通称才次郎、字は大可、九茸と号した。岡藩の人であつた。少  壮懐徳書院に学んだ。著述には『近世叢語』『続近世叢語』等がある、  『剳記附録抄』によると、平八郎は田能村竹田を介して『剳記』を彼に  贈つた。両者は一度も面会したことはなかつた。 川北重熹――通称喜兵衛、島原藩の儒臣、彼は平八郎とは一度も面談した  事はなかつた。しかし京摂を往来して、横山生を介して面会しようと欲  したことが屡々あつた。横山生は平八郎に懇意な者であつたと見へるが、  履歴は不詳である。 吉村晋――通称隆助、字は麗明、号は秋陽、芸州の人、本姓は小田氏、一  斎の門人で陽明学を研究した。慶応二年十一月に死んだ。年七拾。 平松正愨――通称健之助、後に喜蔵、字は子愿、又は楽斎と号した。津藩  の臣。彼は伊勢の両文庫に『剳記』を奉納した。平八郎の方から訪ねた  ことがある。天保八年二月廿五日付の猪飼敬所の書簡に、『貴兄去年大  塩方に御逗留の様子』とあるが、委細が解らないのである。



幸田成友
『大塩平八郎』
その76







幸田成友
『大塩平八郎』
その175

幾寓
「幾層」が
正しい







幸田成友
『大塩平八郎』
その80



幸田成友
『大塩平八郎』
その81

九茸
「九華」が
正しい




喜兵衛
「喜右衛門」 
が正しい

横山生
横山文哉


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