Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.5.16

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩平八郎』

その29

丹 潔

(××叢書 第1編)文潮社 1922

◇禁転載◇

第六節 友人 (4)

管理人註
   

足代弘訓――通称は権太夫、号は寛居。伊勢外宮の権禰宜で正四位を授つ  た人である。彼に関して『日本大文学史』(大和田建樹氏)卷の四に  『幼時より読書詠歌を好みしが、長じて万葉集を荒木田久老に、律令を  亀田末雅に、語格を本居春庭に学び、京都に上りては、和歌を芝山持豊  に、有職故実を竹屋光棣に学び、其蘊蓄を究めざるはなく、殊に歌文を  よくせり。その著述は千卷に余りべし。安政四年十一月二十日没す。年  七十三。家集を海人の囀といふ』とある。  『拙者儀、十歳頃より近代の軍記をこのみ、十四より、学問に志し、歌  のよみ申候、二十頃、三十頃はいはゆる偏固の田舎天狗に御座候処、追々  有名の人々に交り候後、段々志下り、唯今にては白髪の老書生に御座候』  と、自ら嘲つてゐる位で、また、学者連を、かう皮肉つた人間味の豊な  人である。『一、人を欺くために学問すべからざる事。二、人と争ふた  めに学問すべからざる事。三、人を誹るために学問すべからざる事。四  人の邪魔するために学問すべからざる事。五、己が自慢するために学問  すべからざる事。六、名を売るためにすまじき事。七、利を売るために  すまじき事。学者悉く座右の銘として、深く顧みる所あるべきなり。』  天保四年に彼は平八郎の『剳記』を両文庫に奉納した。同七年十月に同  職の安田図書を洗心洞に入塾せしめたのも彼である。彼は平八郎とは非  常に親しかつた。知己になつたのは弘訓が天保四年の出阪の時であつた。  同六年、平八郎は訪勢の際、天竺には釈迦、漢土には孔子があるが、日  本にはまだ聖人がゐない。近々自分が聖人となるのだ。心血を注いだ  『剳記』を朝熊岳に焼捨てくれよ。然らば其の煙で聖人となるのだ、と  云つたので弘訓は驚いた。その言葉以後、絶交したと云ふことだ。安田  図書を紹介したのも、全く弘訓の懇望によつたもので、これは事実を捏  造したのではないかと私は思ふのである。 坂本鉉之助――玉造口与力、名は俊貞、字は叔幹、鼎斎また咬菜軒と号し  た。荻野流の砲術の達人であつた。大塩派騒動の時には同心支配を勤め  てゐた。同僚の柴田勘兵衛が、平八郎の槍術の師匠であるところから、  交際を始めた。また同僚の大井伝兵衛を説いて、その忰の正一郎を洗心  洞に入塾させたは鉉之助であつた。その著述『咬菜秘記』が大塩騒動に  関する有力なる史料である。万延元年九月に年七十で歿した。


幸田成友
『大塩平八郎』
その82
























誹(そし)る

























弘訓の懇望
「図書の懇望」か


幸田成友
『大塩平八郎』
その85

坂本鉉之助
「咬菜秘記」
その2

大井次兵衛
「大井伝次兵衛」
が正しい


『大塩平八郎』目次/その28/その30

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