Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.5.17

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩平八郎』

その30

丹 潔

(××叢書 第1編)文潮社 1922

◇禁転載◇

第六節 友人 (5)

管理人註
   

矢部定謙――矢部駿河守、名は定謙、天保四年七月から、同七年九月まで、  西の町奉行を勤めてゐた。在職中に淀川浚渫して土砂を天保山 に積み  上けたのも、また火刑の改造などを行つたのも彼であつた。彼は有名な  奉行だつた。  彼は平八郎を招んで、屡々行政上に対して密談をした。それほど親しか  つた。互に打解けてゐた。                    かながしら  嘗て彼が平八郎を招いて会食をした際、金頭魚を炙つて出した。話がた  ま/\社会改造に及んだので、平八郎は激憤して、その魚を、頭から尾  までぼり/\と噛砕いてしまつた。  翌日、家老某が、駿河守をかう諌めた。  『昨夕の客は、狂人だからお近づき召されるな。此後は奥通りを御差止  め遊ばせ。』  『先般の奉行之編集の書籍差出、右挨拶として、衣類等貰ひ請け、又は、  同役共を以て御用筋之儀尋ね請け候儀も有之、其時に心底を不*残申立  快然之由。』と吉見九郎右衛門の吟味書中にある。この先役の奉行とあ  るのは駿河守の事であらう。跡部山城守が赴任の時、町奉行としての心  掛を駿河守に尋ねたら、与力の隠居に大塩平八郎なる者がある、悍馬の  やうな性質で、これを巧妙に使へば、充分御用に立つ人物であると告げ  たと云ふ事は、遉に駿河守は観察眼が秀れてゐた。奉行としてよく平八  郎を見抜いたのは、高井山城守と矢部駿河との両人のみであつた。しか  し平八郎は役人のうちで矢部駿河守と一番親しかつた。 大西与五郎――東組与力。裁許書によれば、白井孝右衛門の言葉では『伯  父』とある。また浅井一郎は与五郎の厄介の兄と裁許書にあるからは、  両人とも平八郎の実母の兄である。与五郎は騒動の時、町奉行跡部山城  守から特別の使命を蒙つたが、卑怯の態度を取つたので、遠島に処せら  れた。 宮脇志摩――平八郎の実父敬高の弟である。文政六年摂州島下郡吹田村氏  神の神主宮脇日向の養子となつた。騒動に加つて戦つたが、自殺した。 浅井中倫――通称を太一郎と云つて平八郎の『外舅』に当つてゐた。身分  は『本府の騎吏にして致仕す』、とあれば与力の隠居である。天保八年  の大坂袖鑑の西組与力中に浅井岩之丞とあるのは、おそらく浅井氏のこ  とで、太一郎はこれの隠居であらう。平八郎には妾はあつたが妻はなか  つたと、外舅の二字を妻の父とすれば、甚だ解釈に苦しむが、母の昆弟  を舅としたとの説もある。


幸田成友
『大塩平八郎』
その86

川崎紫山
「矢部駿州」
その9























先般
「先役」が
正しい







遉(さすが)







幸田成友
『大塩平八郎』
その88



浅井一郎
「浅井太一郎」
が正しい




















昆弟
兄弟


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