Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.5.15

玄関へ

「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩平八郎』

その28

丹 潔

(××叢書 第1編)文潮社 1922

◇禁転載◇

第六節 友人 (3)

管理人註
   

間長涯――通称を十一屋五郎兵衛と云つた。質屋の主人で名を重富、字を  大業、京橋口同心高橋作左衛門と相並んで、天文家麻田剛立の高弟であ  つた。それで作左衛門と同じく幕府に召された。改暦の事に与り、功を  以て名字帯刀を許された。大坂では有名な科学者であつた。長涯が平八  郎の知己になつたのは、何時からだか解らぬが、長涯が彼と交を絶つた  は騒動の半年ばかり前でこれには、かう云ふ物語がある。  七年の秋頃であつた。  長涯が洗心洞塾へ行つて見ると、下駄の脱ぎ方が非常に乱雑であつた。  つまり一足はあちらへ一足はこちらへと投げ出されてゐるのであつた。  いつだか平八郎が長涯に、行届かぬ点があつたら、遠慮なく、忠告して  くれと云ふ事を思出したので、この有様を直ぐ彼に告げると、有難さう  に礼を述べた。  一ケ月後に行つて見ると、下駄の脱ぎ方が、以前のやうに、乱暴なので、  長涯は平八郎の精神と言語が、一致せぬことを知つた。『平八郎は口は  達者だが、実行しない男だ』と罵つて長涯は、再び洗心洞を訪れなかつ  た。『長涯は気の小さな男だ。下駄などにとやかく云ふようでは、まだ/\  先が遠い。』と平八郎は笑つたと云ふ事である。 林述斎――平八郎の書簡に、『祭酒林公も亦、僕を愛する人なり』とある。  彼は年代から推察して、大学頭林述斎、名は衡、字は徳詮であることは  疑はれない。しかし平八郎の江戸遊学説を否認すれば、二人の交渉は、  どうして結ばれたかが問題である。          たゆひのせうせんり  平八郎の門人たる田結荘千里の説によると、林家用金の調達に原因して  ゐるのである。  或る時、平八郎が同僚の八田衛門太郎を訪れた。林家の用人が林家で家  を改造をするために、大坂表で千両の頼母子講を作つてくれろと、衛門  太郎に相談をしてゐるところだつた。  これを聞いた平八郎は『さて案外の企をするものだ。他に洩れては林家  の外聞にも拘はるだらう。その金額は拙者が調達する。頼母子講は御断  念下さい。明朝、辰刻前後に御出で下されば、金子は、その節、お渡し  申す。』と云つたので、用人は小躍りして喜んだ。なにぶん宜しくお頼  みすると云つて帰つた。  平八郎は直ぐに門弟を三人呼んで委細を話した。金子を調へて待つてゐ  ると、用人はその時刻にやつて来た。そこで千両の金子を渡した。用人  に『大学頭殿のお土産として、お聞きに入れるものがある。』と、平八  郎は塾生十余名を呼んだ。彼の前で経文を暗誦をせしめた。さうして彼  は江戸に帰つたと云ふ話がある。  また林家の無尽に白井孝右衛門は五百両、木村司馬之助は三百両を掛け  た。出金の折は、林家の表印、大学頭の裏印ある証文を平八郎から渡し  て、一二年は割戻しがあつたが、其の後はその証文を彼の許へ引上げた。  更に橋本忠兵衛の印の証文と取替へたと云ふ説もある。  また天保八年三月、それは大塩派騒動の翌月であつた。豆州韮山の代官  江川太郎左衛門邸から、同国塚原新田地内一里塚の傍の林中に、大久保  加賀守忠真殿、脇坂中務大輔安董、家来中大塩平八郎と認めてある白木  の箱が破壊されたあつた。その近くに平八郎から御老中宛、水戸殿宛、  林大学頭宛の書状、及び其他の書類が雨露に濡れて散乱してゐたと云ふ  届書があつた。其の目録によれば、文中の証文類、帳面類の文字は頗る  注意を牽いた。或ひは平八郎が、騒動の際、林家御用金に関する一切の  書類を取纏めて返送したのではなからうか。との説が盛んである。


幸田成友
『大塩平八郎』
その79


坂本鉉之助
「咬菜秘記」
その49































幸田成友
『大塩平八郎』
その77







相蘇一弘
「大塩の林家調金
をめぐって」





























『塩逆述』
巻之七之上 
その15
「江川太郎左衛
門御届」

幸田成友
『大塩平八郎』
その78


『大塩平八郎』目次/その27/その29

「大塩の乱関係論文集」目次

玄関へ