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柴田勘兵衛――玉造口与力、佐分利流の槍術の大家だ。平八郎は彼を師匠
として尊敬してゐた。
左の三通は事実が聯絡せるものと思はれる。先生は柴田勘兵衛で、多湖
氏とあるは勘兵衛の同僚で、天羽流の剣術の大家なる多湖権之助を云ふ
のである。近藤氏とあるのは、弓奉行近藤守重のことである。
一
先生 平八郎
逐日冬景相催御揃的以御安泰被成御座奉恭祝候。然者先頃は近藤
氏御紹介申上、早速無御異辞御逢被下、近藤氏も甚大慶に被存、猶
宜申上候様頼被入候、其後右惣領御入門訂日七日と権八郎を以御伝声
早速相達候処、彼方に少くさし支へ御座候、十一日後と申上置、十五日
に話定候間、尊家には御さし支無御座候哉、承知仕度間、十五日御さ
し支之有無乍御面倒被仰知可被下奉頼候。
近藤より別紙之通申越、右は私内存承りに来候儀にて、備電覧候事如
何と奉存候得共、私より一己之扱を返事仕候儀も難仕、夫故近藤へは
内々にて備御覧候間、多湖氏等に寄宿人之有之候も御座候様相覚候付、
右御振合私へ御内々にて被仰知可被下候、尊家には右様之事に無御
拘、唯御実意を以て御世話被下候御手へ、箇様之事御伺申上候ては却
而厚き思召を傷之候に当り候へ共、近藤氏も物堅き人柄故、中途にて一
己之斗り難仕間無拠右申上候間、多湖氏之御振合御聞せ之程奉願候、
先用事而已、緒余拝面万々可申上候。以上。
十月十一日
二
柴田勘兵衛様 大塩平八郎
唯今は拝謁大慶任候、則帰途近藤氏邸舎へ御立寄り候処、飽迄御礼御願
申上置候様申聞られ候、灸治も重而今日より尊家にて御止宿之積り、且
雄次郎面会之儀御停止、其段重蔵殿直談に御座候間、尊前迄申上候、宜
御伝可被下候、先用事而已早々如此御座候。以上。
十月十七日
三
先 生 後素拝
前刻は拝謁大慶仕侯、扨件之儀、直様相咄候処、止笑不可言之体、乍
然私も以一旦尊公様へ相願候事にも有之候間、御頭様御用人中へ内談
旁御城入いたし被申侯由被申聞、今日同役衆へ示談、明朝御城入之
積りに御座候間、左様思召置可被下候、彼の人も磊落之名は有之候
へ共、実心において余程賢成処有之人物に付、御用人中へ内談も平和
にて御心易思召可被下候、緒余拝謁万々可申上候得共、先右之段申
上度如此御座候、以上
十月廿五日
近藤守重――彼が文政二年から同四年三月まで、大坂に赴任してゐた頃、
平八郎と交つたのである。砲術の指南柴田勘兵衛の処へ守重の長男を入
門せしめたのは彼である。右の柴田に送つた手紙の中にも『近藤氏の物
堅き人柄故』と『彼の人も磊落之名は有之候へ共、実心において余程
賢成処有之人物に付、御用人中へ内談も平和にて御心易思召可被下
候』などゝもあるが、平八郎とは親友ではないらしいのである。
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幸田成友
『大塩平八郎』
その85
幸田成友
『大塩平八郎』
その177
的
「益」(ますます)
が正しい
話定
「治定」が
決定すること
扱
「極」が
正しい
幸田成友
『大塩平八郎』
その178
御願申上置候
「御頼申上呉候」
が正しい
幸田成友
『大塩平八郎』
その179
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