Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.5.27

玄関へ

「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩平八郎』

その40

丹 潔

(××叢書 第1編)文潮社 1922

◇禁転載◇

 第三節 檄文を配布して

管理人註
   

 人間が食へなくなると直ぐ騒ぎ出すと云ふのは真理である。人間ばかり ではない。苟しくも血の通つてゐる動物は皆さうである。四五の例を上げ ると、この年に野州の日光山の民衆が奉行所を囲んで籾倉を開けよと叫ん だ。また鳥山に民衆一揆が起つて、城下市中の金持の家をぶつ倒して金品 を 【2行脱字】 して米屋を片つ端から襲撃してはぶち毀した。幸手宿 ではやはり貧乏人が蜂起して金持の家を破壊して廻はつたのである。  この年大坂には、まだ騒動は起らなかつたが、前度の飢饉、即ち天明七 年五月十二日に大坂の民衆が暴動を起して米屋並に資本家を襲撃した。こ れが導火線となつて大坂附近の民衆は動いた。それに対して江戸でも、民 衆が盛んにぶち毀しをやつた。血気に燃えた若い民衆と徹底した坊主が隊 を組んで市街をねり廻つて、金持の家や倉庫をぶち毀して食料を街上にぶ ち撒けた。貧乏人はそれを自由に持つて行つた。また常に民衆を圧迫する 町奉行をも焼き払つた。旗本とか大名とか云ふ連中は、驚いて先手頭数十 隊を繰り出してやつと鎮座した。  平八郎は明春堺七堂浜で丁打試みる準備として九月頃から、門弟の瀬田 済之助、小泉済次郎等外数名と共に火薬、棒火矢、炮碌玉等の製造を秘密 に従事した。庄司義左衛門は焔硝火薬を集めた。天満北木幡町の大工作左 衛門は、火矢に用ゐる棒を作つた。白井孝右衛門から、松の材木を譲受け て木砲を作つた。高槻藩士柘植牛兵衛所持の百目筒と、平八郎所持の刀一 腰、及び唐画一幅と交換した。平八郎は済之助をして同組与力由比万之助 の父彦之進及び堺桜町の鉄砲鍛冶、芝辻長左衛門から、百目筒一挺づゝ借 出させた。また河合郷左衛門、吉見九良左衛門の二人をして、天満今井町 の樫木職尼崎屋仁兵衛、同所南森町尼崎屋仁右衛門、同所北森町鍵屋弥兵 衛に大砲の台車を作らせた。  次に江の子島東町の次右衛門を招いて、木筒及び鉄砲台に用ゐる伏樋類 似品を作らせた。其他、小銃、鎗、刀、脇差等を苦心惨憺して集めた。又 松の木棒十本、樫の木棒十本、燧石壱貫目、燧金大小七挺、筒握鑿六挺、 草鞋二十五足等も工面した。表五七桐、裏蔦の紋所、下に二つ印附提灯弐 拾張を調製した。北久宝寺町五丁目の版木師、次郎兵衛に檄文の版木を彫 らせた。その檄文は左の如きものである。    【檄文 略】  版木が出来ると、塾生の英太郎、八十次郎の二人は徹夜して摺上げた。 これは西のうちで五枚続きであつた。袋は鬱金色の加賀絹で、その中央に 『天より被下候』と書いて、左の脇書に『村々小前ものに至る迄へ』と記 した。その裏に伊勢太神宮の御祓を結付けて、上田孝太郎、額田善右衛門 等をして配布せしめた。勿論、一日の仕事だから、広く配散されなかつた。 ――家の中へ投げ込んだり、通りすがりの人々へ手渡したり、または人が 群がつてゐる所にばら撒いたりした。  しかし摂津の沢上江村、赤川村、稗島村、野里村、天王寺村、加島村、 大和田村、上福島村、森小路村、森立寺村、下三番村、海老江村、三津屋 村、新在家村、河内の池田中村、同下村、池田川村等の各戸に檄文を投げ 込んだ。その外は、発見される恐れがあつたので撒かなかつた。




幸田成友
『大塩平八郎』
その108


























小泉済次郎
「小泉淵次郎」
が正しい



作左衛門
「作兵衛」が
正しい


幸田成友
『大塩平八郎』
その109





尾崎屋仁右衛門
「尼崎屋仁右衛門」
が正しい













幸田成友
『大塩平八郎』
その110檄文森立寺村
「光立寺村」
が正しい
 


『大塩平八郎』目次/その39/その41

「大塩の乱関係論文集」目次

玄関へ