Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.4.22

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩平八郎』

その5

丹 潔

(××叢書 第1編)文潮社 1922

◇禁転載◇

第二章 与力時代
 第一節 人間的の話(3)

管理人註
   

 第六項 賄賂を突返す  前述したように町奉行所附の与力の禄米の実収は八十石で、同心は僅か に十石三人扶持であつた。しかし人望のある与力は、二千石取り位の生活 をしてゐた。――元来、大坂には、別に士と称する者がなかつた。天満組 六十騎の与力、百人の同心――東西町奉行には、各々三十人、同心が五十 人従属してゐる――が、唯一の武士階級であつた。さうして城代と町奉行 とは、その任務が異つてゐた。前者は大坂を守備するので、其の下に属す る定番、及び諸奉行から、与力、同心等に至る大小の官吏は、市政に何等 の関係もなかつた。市政は後者の町奉行の専有物であつた。しかし其の町 奉行は頻々と交迭された。――文政三年から、天保七年まで、僅か十七年 間に、荒尾但馬守成幸を緒端として、内藤隼人正正矩、高井山城守実徳、 新見伊賀守正路、曾根日向守次孝、久世伊勢守広正、矢部駿河守定謙、戸 塚備前守忠栄、大久保讃岐守忠実、跡部山城守良弼、堀伊賀守利堅等の多 数が交代して勤めた。大概は二三年で転じた。高井山城守が十一年も勤め たのは、実に異数であつた。  大坂の町奉行は、幕府の役人の一時的の腰掛の場所であり、また官界の 登龍門であつた。こゝを実直に勤めれば、江戸に帰つて町奉行とか、勘定 奉行とか、云ふものに栄進する。それで江戸から多くの役人が流れ込んで 互に技倆を争つた。  大坂の市政は町毎に一人づつ、自他の町人(地面を有する町人)、と屋 守(自分の家屋を有する町人)とが、投票によつて選挙された。それを更 に『年寄』と云ふ世話人が選挙した。その上に総年寄と云ふものがゐた。 それが、十幾軒かあつて、其の職を継ぎ、他業を営まなかつた。月番で総 会所に詰めてゐた。北組、天満組、南組の三郷に分離して、各々、其の組 内を監督する総年寄は、官府から宅地を与へられた。長屋門のある方三四 十間の家屋に住んでゐた。さうして堂々たる玄関があつた。殆んど武家屋 敷に類似してゐた。出庁の時は、肩衣袴を着用し、一刀を佩帯した。与力、 同心等は、いつも、これらの者と接して市政、及び司法の一切事務を統管 するので、其の権力は実に素晴しいものであつた。それで年頭、八朔など になると、三郷町、または諸株、諸仲間から、多くの附届があつた。殊に 地方役などは最も儲け役で収入が多い。商業上の訴訟が生まれ、和解願下 になると、原被の両者から、礼銀を持参した。また御用金が済んだからと 云つては、掛与力、及び同心へ礼銀を持参した。其の他、無事とか、変死 者とか、即ち何か事件が持ち上ると、彼等に礼銀が舞ひ込んでくる。それ が副収入であつた。彼等はこれらの賄賂を、大ぴらで貰つてゐた。  しかし清廉潔白の平八郎は、他の者のやうに賄賂には手を出さなかつた。 それが彼が在職中の尊い光りであつた。  頼山陽が彼に贈つた詩中にかう云ふ句がある。 『家中不鬻獄銭』  これが彼の精神をよく映してゐる。  ところが、御池通四丁目の播磨屋利八は、平八郎が留守中に持参した物 を、其の町の年寄にまで戻して、かう云ふ戒めの書面を送つた。  此肴を播磨屋利八と申すものより、此方留守中、持参さし置帰り候、不  埒の事に候へ共、不弁故之俄と彼推候間、町内へさし戻し遣はし候條、  心得違無之様申渡し可申置、此度は内分にて右様取計遣し候事。                       大塩平八郎        御池通四丁目 御年寄へ
























大坂町奉行一覧
(大塩平八郎関係) 


内藤隼人正正矩
内藤隼人正「矩佳」
が正しい








幸田成友
『江戸と大阪』












































高瀬武次郎
「大塩中斎」
その7






幸田成友
『大塩平八郎』
その15




之俄と彼推候
「之推候」
が正しい


『大塩平八郎』目次/その4/その6

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