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第三項 頼山陽の杖
平八郎は頼山陽が紛失した菅茶山の遺愛の杖をすぐに捜索した。
山陽はその敏捷を賞めた。さうして、その捜索法を尋問した。平八郎は
簡単にかう答へた。
『階前は万里なり。阪府の所管僅に方数拾里、在る所の物は、繊芥の微と
雖も、わが眼底を逃れず。』
第四項 漢文の願書
或る医者が町奉行所の役人を困らす目的で、漢文体の願書を提出した。
その当時、願意の可否によらず、一旦、却下することになつてゐた。漢文
の素質のない役人は、その願書を平八郎のもとに持つて来た。彼はそれを
山城守に見せて、殿の意志を漢文で書いた。その名文に遉の医者も冷汗を
流した。それ切り漢文の願書は、舞ひ込まなかつたさうである。
第五項 大名に叛逆
高井山城守実徳が大阪町奉行となつたのは、文政三年十一月である。そ
れから四五ケ月後の事で、即ち文政四年の四月頃だ。その時、平八郎が廿
九歳であつた。
玉造口与力坂本鉉之助が、鎗術師柴田勘兵衛を供つて平八郎の宅を訪れ
た。鉉之助は勘兵衛の宅で、平八郎に面談したことはあるが、彼を訪れた
のはこれが初めてであつた。
二人が座ると、平八郎は急にかう述べた。
『ようこそ、おいでになされた。殊によると、拙者は切腹してお目にかゝ
れなかつたかも知れなかつた。ところが、いま、このやうにお目にかゝれ
るのは、幸福でもあり、不思議でもある。』
二人は驚いて、その真相を尋ねた。その理由はかうである。
――天満の町人の、某氏が貸金出入で訴へられた。いよ/\定められた
日限が来たので、返済に迫られた。
彼の訴状には――近年の不仕合で借財が、だん/\積つて、こんど切金
を命ぜられても、一口が済めば、また一口と云ふやうに手数をかけて、畢
竟、全額を償却することが覚束なく、なにとぞ身代限を仰付け下さい――
との趣旨であつた。しかし彼は先代に御用金を差出したことがあると云ふ
ので、一応、江戸表へ問合はすことになつたが、水野出羽守はこれを否認
した。この理由は旧いことを掘り出されたら、限りがないと云ふのだ。殊
に当時の大名は金銭にかけては、神経が鋭敏であつた。それは幕府が大名
に金銭の自由を獲得されると、叛逆する基を創ると云ふ考へをもつてゐた
からだ。さうして若し産業が発展して金銭が豊富になると、幕府は、それ
を恐れて大河の工事、神社仏閣の建立などに浪費させてしまつた。斯う云
ふことで、大名は常に無一文であつた。どうしても大金の入用の場合は、
難題を持ち出したり、威脅したりして、極秘で資本家から借用してゐた。
これらが原因となつて、その当時の大名は資本家には頭が上らなかつた。
で、水野出羽守は身代限を申渡せと、主張した。それをどこかで聞いた
平八郎は、尠からず憤慨した。直に西町奉行内藤隼人正へ参上して、その
事を述べようと思つて面会を求めたが、組違ひなので果されなかつた。そ
れを強制的に面会した。
『私頭、高井山城守は此の頃の御赴任なので、御気質も理解して居りませ
ん。しかし御前は、前年当地に御目附を勤められた上に、御継母さまに御
孝心であると云ふことを町の衆から、聞いて居りましたから、参上いたし
ました。就きましては今度の切金のことは、江戸表へ御聞合せを願ひたう
存じます。彼の者は先代公儀へ御用立ていたしました理由は、一つには家
のため、二つには子孫のため。如何に当人の願ひとは云ヘ、身代限を申渡
したり、家名を断絶したりいたしますと、今後、当地の商家は御用立をい
たさないやうになります。何卒、御推察の上、御尽力下されば、彼の者も
私も光栄で御座います。若しいま、申上げたことに御咎めあらば、私は責
任を負つて、即座に切腹いたします。』
平八郎が、かう云ふと、隼人正ははら/\と涙を流して、
『貴殿が山城守を差除けて当方へ参上したことは、極秘にしておく。貴殿
から、山城守へ申し聞いては如何。若し山城守から、御相談があれば、其
の節は彼の者にも、貴殿にも利益になるやうに努めよう。安心せよ。』
と、述べられた。
隼人正は平八郎の趣旨を江戸に問合はせて、二人の都合の好いように取
りはからつた。
平八郎は大名に対して叛逆するのに、民衆間生れた出来事を以てした。
彼の人間的行為は、この頃から民衆に認められたのである。
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幸田成友
『大塩平八郎』
その18
階前は万里
万里の遠方も
階前の出来事
と同様である。
幸田成友
『大塩平八郎』
その20
遉
(さすが)
幸田成友
『大塩平八郎』
その21
坂本鉉之助
「咬菜秘記」
その2
身代限
借金の返済が
できなくなっ
た債務者に対
し,官の命令
でその財産全
部を債権者に
与えて債務の
返済にあてさ
せたこと
水野出羽守
忠成、老中、
在職期間は
1817−1834
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