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かくけつ ついたち
頼山陽が京都の山紫水明処で喀血して死んだ翌年、天保四年の八月朔日、
突然に大暴風雨が襲来した、その時の範囲の広さは、驚くばかりであつた
が、殊に関東地方はその中心らしく、被害の程度の甚しいことは、全く言
語に絶してゐた。五穀は残らず枯れてしまふし、そのうへ夏だといふのに
あはせ はづ
袷が欲しいといふ時候外れの寒さが来るし、なほそのうへに疫痢が流行し
あが
出すといふ不仕合せ続き。米の値段はどんどんと騰る一方で、到頭いつも
の二倍半になるといふ騒ぎであつた。米一升二百五十文といふ値段は、あ
まりと云へば法外であつた。かうなると、米ばかりが高値になつて往くの
ほか
ではない。外の諸物価も亦それに連れてどんどんと騰つて往くために、全
く誰れも彼れも生きた色はなかつた。
『ああ、神も仏もないものか、情けない世の中になつてしまつた、これで
はどんなに素直な心を持つた者でも、だんだんに心が荒んで恐ろしいこと
を考へるぞ、恐ろしいことだ、恐ろしいことだ。』
少し心あるものはさう云つて嘆息した。幕府でもまるで見て知らん顔を
してゐたわけではない。いろいろ窮民を助ける策を施したのであるが、何
んにしても被害の範囲が大きいので、手が行き届かなかつた。そして、間
もなく播州では百姓一揆が起つた。
『そら、云はぬことぢやない、恐ろしい世の中になつて来たぞ。』
そこへ持つて来て、幕府であんまり金銀貨を造り過ぎたために、世の中
はますます不景気のどん底へと沈んで往くばかりであつた。
『ああ、飢饉だ、飢饉だ。』
は
誰れ云ふともなしに、その恐ろしい言葉が人人の口の端にのぼつた時、
本当の飢饉が文字通りにやつて来たのであつた。
飢饉の中でも大阪の飢饉は又格別であつた。それは全国の経済的方面の
中心地であつただけに、そこがこれ以上のどん底へ落ちて往くやうなこと
をさま
があつたら、それこそ、とても播州の百姓一揆どころの騒動では納らなか
さひはひ
つたであらうが、幸なことには、当時大阪には、矢部駿河守定謙と、この
物語の主人公大塩中斎とが厳然と控へてゐた。
この矢部駿河守は天保二年に大阪東町奉行として赴任して来たもので、
非常に度量の大きい正義廉潔の武士として、早くからその令名を歌はれて
ゐた。彼は如何に小さな事を処理するにしても、必ず独断といふことを避
はか
け、下役の者に諮るとか、民間にその意見を糺すとかするのであつた。
かうした公平な、よく民意を容れる政治家であつたから、どうして当代の
賢良大塩中斎をそのままにして置かう、彼は何事につけても、この平八郎
を顧問役にした。表向では平八郎はただの一与力の隠居に過ぎなかつたが、
矢部駿河守の奥座敷にあつては、全大阪の生命を握る威大なる経世家であ
つた。
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徳富猪一郎
『近世日本国民史』
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『大塩平八郎伝』
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『大塩平八郎』
その86
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