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もと つかひ や
ある夜、駿河守は例によつて、平八郎の許へ使者遣つて平八郎を招いた。
そして、用談をすませた後で、料理などを食べてゐたが、ふと話が国の将
しづか
来といふやうな問題に及んで来ると、今まで静に食事をしてゐた平八郎は、
そび
俄に額に青筋を立て肩を聳やかした。
も いつてう
『それです、それです、私の心配でたまらないことは、若し一朝にして我
国がさうにでもなつた暁には、この俺はどうしたらいいのだ、うむ、どう
したらいいのだ』
果ては駿河守の傍に居ることを忘れて、体をぶるぶると震はせながら、
狂人のやうに怒号しはじめた。
いつてんばんじよう おほぎみ
『さうなつたらどうする、この一天万乗の大君をどうする、うむ、情けな
いぞ、情けないぞ。』
なだ すか
と云つた。これにはさすがの駿河守も驚いて、いろいろと慰め賺しても
見たが、そんな言葉は一向耳に入らなかつた。そして、ぢつと恐ろしい目
を据えて一方を睨みながら、唸り声をたててゐたが、突然膳の上にあつた
かながしら
金頭の焼いたのを手につかんで、
『うぬ。』
と云つて、バリバリと噛み砕いて食べてしまつた。この有様を見て、胆
まつさお
をつぶしたのは給仕に出た一人の小姓であつた。真蒼になつて座をさがる
おそばようにん
と、そのまま用人部屋へ駈け込んで、御側用人内藤十郎にその有様を逐一
物語つた。その翌日用人の内藤は駿河守の部屋へ遣つて来た。
『殿様、どうも昨夜の客人は狂人のやうでございますから、以後あまりお
そば し で か
側へお近づけになりませんやうに、あんな狂人は何を仕出来すか解るもの
ではございません、万一殿様の御身に間違ひでもあつては太変でございま
す。』
用人は一生懸命になつて、駿河守に納得させやうとした。けれども駿河
守は笑つて取り合はなかつた。
『いいや、心配するな、あの男は決して狂人ではない、これには仔細のあ
る事ぢや、だが、それはお前達には解らぬことだ、まあ、いい、いい、以
後そんな心配は無用だぞ。』
さう云つて駿河守が用人をたしなめて、その後も相かはらず親交を続け
てゐた。かうして駿河守が平八郎を用ゐて事を処理したがために、大阪は
他の地方よりも遥に窮民の救助が行き届いたので、その歳はまづ何事もな
うち
く平和にどうやら年を越した。このことは天満水滸伝の中にも、『これは
矢部駿河守殿、救命宜しきに因るものにて』云云と書いてある。
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石崎東国
『大塩平八郎伝』
その86
幸田成友
『大塩平八郎』
その86
桜庭経緯
「矢部駿州と
大塩平八郎」
『天満水滸伝』
その13
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