Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.1.18

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『近世日本国民史 文政天保時代』

人物概覧 (あ−お)

徳富猪一郎(1863-1957)著 民友社 1928

◇禁転載◇

人物概覧 (あ−お)

あ い う え お

足代弘訓  幼字は慶二郎、後式部また権太夫と称し、寛居と号す。伊勢山田足代  弘早の子。天明四年十一月生る。寛政二年十七歳にして父の後を嗣ぎ  神主となる。後荒木田久老、本居太平、同春村等に学び、又京都及び  江戸に出で諸縉紳諸名士に就き聞見を広くす。天保中勅により宮中に  召され国史を講じ、又諮詢に答ふるところあり、ついで六国史人名部  類若干巻を撰して献上す。晩年洋舶の来るや博く図書旧史に考へ従遊  の士に告げてふところを知らしむること多し。安政三年十一月五日  死。年七十三。著書寛居雑纂、度会系図、同考証等あり。 〔三七〕 跡部良弼  能登守、山城守、伊賀守、又遠江守、甲斐守と称す。文政十三年使番  より酸府町奉行となり大膳と称す。後堺奉行を経、天保七年四月大坂  町奉行となり、十年大目付に移る。ついで勘定奉行公事方となり、十  五年九月江戸町奉行となる。其後小性組番頭留守居、大目付海防掛、  町奉行、清水附支配、留守居、側衆留守居兼帯等を経、文久三年七月  側用取次となり、元治元年六月免職。同十一月留守居上席となり、慶  応三年八月側衆格となる。同四年二月若年寄となり三月辞す。墓は東  京青山玉窓寺にあり。〔四〇、四二、四三、四六、五〇、五一、五八、  五九、六〇、六十一〕 荒木玄蕃  出石仙石氏の臣。藩中随一の旧家にして本高千七百石を知行す。天保  八年仙石左京一件の際年三十四、左京の為に禁獄せられしことあり。  遂に此の為連坐して知行を召上げらる。〔一三、一四、一五〕 井伊右京亮  名は直経。井佐直政の長子直勝の子孫なり。越後与板二万石を領して  城主格たり。天保大塩の変大坂小口屋小番たり。 〔五八、六二〕 井上正甫  遠州浜松城主。正定の嗣。文化十四年九月陸奥棚倉に移封せらる。  〔三〕 今井克復  大阪天満組惣年寄、通称官之助。大塩乱の際消防人足を率ゐて東番所  に至り警戒し、又大塩逮捕の際も同じく人足を率ゐて附近の警戒に任  ぜり。〔五七、六八、七三、七四、七五〕 今井官之助 克復に同じ。〔五三、六六〕 岩田静馬  出石仙石氏の臣。年寄となる。天保八年左京一件に関与し罪を得、死  罪に処せらる。時に年四十五。其の子虎太郎又遠島に処せらる。  〔一六、一七、一八〕 岩田丹太夫  出石仙石氏の臣。旗奉行、郡奉行兼帯勘定奉行たり。天保八年、左京  一件に関与し、中追放に処せらる。時に年五十八、  〔一六、一七、一八〕 内山彦次郎  大阪西組与力。大塩逮捕に功あり。大阪箱館産物会所掛役人となり、  元治元年五月天神橋上に暗殺せらる。〔四六、六六〕 宇津木静区 矩之允に同じ。〔五四〕 宇津木矩之允  字は共甫、通称俵二また矩之允、静区と号す。彦根藩老臣宇津木下総  の弟。天保五年大塩平八郎の門に入り後ち長崎に遊ぶ。大塩挙兵の当  日殺害に遭ふ。時に年二十九。其詩稿を浪逆小草といふ。実弟岡本 黄石の編なり。〔五四、五五、五六、五七〕 宇津木兵太 矩之允に同じ。〔五五〕 宇津木靖 矩之允に同じ。〔五四〕 遠藤但馬守  名は胤統。近江野洲郡一万石を領す。大阪御定番となり大塩の乱鎮定  に功あり賞せらる。〔五八、六〇〕 王陽明  名は守仁、字は伯安、明の成化八年余姚に生る。少より豪邁不羈、任  侠を以て自ら居る。弘治十二年進士に及第し、翌年始めて仕官す。十  八年侫臣劉瑾等を劾し、貴州龍陽駅丞に左遷せらる。是より知行合一  の旨を発し正学に復す。後正徳五年召されて江西陵の知事となる。  是より官途益進み弟子亦多し。十一年都察院左僉都御使に進み、南、  汀、等の巡撫に拝す。嘉靖七年死。年五十七。著書伝習録、詩文集  等あり。〔二六〕 大井正一郎  大阪玉造口与力大井伝次兵衛の子。一にサ一郎ともいふ。幼より甚だ  粗暴にして両親を苦しむること少なからず。天保六年三月坂本鉉之助  の周旋にて大塩平八郎の塾に入る。時に年廿一。然れども性来の粗暴  改まらず、七年二月実家より帰塾の送乱酔し刀を抜いて人を傷けしこ  とあり。平八郎の命により宇津木矩之允を殺害す。是より先、伝次兵  衛より久離願出であるを以て乱後伝次兵衛の家は罪を免る。〔五五〕 大久保讃岐守  名は忠実。天保五年七月大阪東町奉行となり、七年三月江戸城西丸御  留守居に転ず。〔四〇〕 大久保忠真  幼字秀次郎。忠顕の子。母は杉山氏。出羽守、又安芸守に叙し侍従に  任ず。後加賀守と改む。父に嗣ぎて小田原城主となる。文化七年六月  大阪城代となり、十二年四月京都所司代に転ず。文政元年八月老中に  任ぜらる。時に年三十一。其初政意の如くならざりしが宿老下世し上  座となるに及び賢俊を挙げ宿弊を改め庶政更新するところ頗る多し。  天保八年三月九日病んで死す。江戸青山教学院に葬る。〔三九、七三〕 大塩格之助  名は尚志、字は子行。実は大阪東組与力西田青太夫の弟。平八郎の養  子となり、天保元年家督を嗣ぎ、同八年三月二十七日自殺す。時に年  二十七。妻いく、実は宮脇志摩の二女なり。〔四六、五七、六九〕 大塩平八郎  名は後素。字は子起。中斎と号す。大阪の与力なり。少小より書を読  み、最も王陽明の人となりを慕ひ、専ら其学を修め、又能く吏務に熟  達す。嘗つて天主教徒を捕へ、又政を乱る豪商数人を捕へて罪に処し  功あり。町奉行高井某に用ひらる。高井職を辞するに及び、又退いて  職を子格之助に譲り諸生を教授す。天保八年米価上騰下民頗る窮困す、  仍つて奉行に説き之を賑恤せんとしたれども言納れられず、奮慨して  自ら蔵書を売り、貧民を賑はし、遂に檄を四方に発し一揆を起す。事  露はれ自殺す。時に年四十八。〔二四〜七五〕 太田資始  備後守、又備中守と称し道醇と号す。天保五年四月所司代より西丸老  中となり、同八年四月老中となる。十二年六月辞す。安政五年六月再  任して老中上座となり、勝手并外国掛りを勤む。六年七月辞す。文久  三年四月三たび老中上座となり同年五月辞す。〔三二〕 大西与五郎  大阪東組与力にして大塩平八郎の母の兄なり。天保九年八月二十一日  平八郎の事によりて遠島に処せらる。〔五三、五八〕 岡本花亭  名は成、字は子省、忠次郎と称す。花亭また豊洲、醒翁、詩癡、括襄  道人等の号あり。少にして計吏となり、矢部定謙、川路聖謨、羽倉用  九等と親み善し。文政の初年建議して悪弊を矯正せんとし却つてけ  られて小普請となる。天保八年水野忠邦に知られ、信州中野郡代に補  せらる。治績頗る挙る。十二年勘定吟味役に遷され、十三年五月勘定  奉行となり、近江守に任ず。嘉永三年八月死。年八十三。〔三九〕 荻原重秀  通称五左衛門、また彦次郎と称す。延宝二年十月召されて御勘定に列  し、天和三年組頭に進む。貞享四年六月諸国御代官の会計終らざるも  のゝ検察を命ぜらる。元禄三年佐渡の支配を兼ぬ。九年勘定奉行に進  み、従五位下近江守に叙任す。知行は屡加増せられて宝永七年三千七  百石となる。正徳二年九月職を免ぜられ寄合に列し、三年九月死。年  不明。谷中長明寺に葬る。〔六〕 小栗美作  郎左衛門某の子。越後高田侯徳川光長の臣なり。名は正矩、国老に列  し、荻田主馬と共に国務を預り聞く。人となり奸侫にして邪智あり、  遂に陰謀を企て事露はれて死を賜る。時に年五十六。〔一二〕

 
  


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