Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.1.18

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『近世日本国民史 文政天保時代』

人物概覧 (は−ほ)

徳富猪一郎(1863-1957)著 民友社 1928

◇禁転載◇

人物概覧 (は−ほ)

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橋本忠兵衛  名は貞、字は含章。大阪近在般若寺村庄屋にて五十石の田畑を 有  せり。大塩平八郎妾ゆうの仮親、格之助妻みねの実父にして、白井  孝右衛門と同じく平八郎に金銀の融通をなせり。天保八年五月十九  日牢死。年四十二。〔四八、六三〕 林忠英  文政八年四月側用取次より奥向並勝手掛りとなり三千石加増せられ、  天保五年十二月また三千石加増、同十年三月五千石加増、十二年四  月職を免ぜられ、菊之間縁頬語、加増の内八千石召上られ差控を命  ぜらる。〔三〕 原市郎右衛門  仙石氏老臣。本高六百石を食む。左京騒動の件により咎を受け知行  召上げられ、十人扶持を賜はり、小人町明屋へ引移り申渡さる。  〔一四〕 原田甲斐  名は宗輔。伊達氏の家老なり。父宗資の後を嗣ぎ八千石を食む。伊  達宗勝の宗家を奪はんとするを輔け、幼主亀干代を立て専恣度なく、  遂に幕府に訴へられ営中に対決し斫らる。時に寛文十一年三月。年  五十三。〔一二〕 比田小伝次  大阪天満組惣年寄なり。大塩逮捕の際今井官之助等と火消人足を率  ゐて附近警戒の任に当れり。〔六六〕 平松楽斎  名は正愨、通称健之助、後に喜蔵と称す。字は子愿、楽斎は其の号  なり。伊勢津藩の臣。〔三八、三九〕 参考平松楽斎(津市HP) 平山助次郎  大阪東組同心。文政三年十五歳にして見習勤となり、翌年大塩平八  郎の門に入り、天保七年町目附に進む。乱前自首し出で賞せられて  御譜代席小普請入となる。〔四三、四五、四八、五〇〕 古内志摩  名は義如。通称初めは治太夫、後志摩と改む。代々仙台伊達氏に仕  へ、父の代より三千五百石を賜はる。寛文八年選ばれて令尹となる。  原田甲斐刃傷一件の際は別室にあり、免るゝを得たり。延宝元年病  みて死す。〔一二〕 別木庄左衛門  江戸の処士なり、初め軍法を山本兵部に学び、後去つて石橋源右衛  門に学ぶ。承応元年九月同門の士林戸右衛門等と乱を謀り、事顕は  れ磔刑に処せらる。〔二四〕 北條遠江守  名は氏喬。河内丹南郡狭山一万石の領主。天保四年三月より大阪西  小屋大番頭たり。〔五八、六二〕 堀田正信  正盛の子。寛永八年生る。正保元年十二月従五位下上野介に叙任し、  慶安四年八月遺領を嗣ぐ。万治三年事によりて封を没せられ、弟脇  坂安政に預けられ、信濃飯田に配せらる。寛文十二年五月酒井忠直  に預けられ、若狭小浜に移る。ついで延宝五年松平網通に預けられ、  阿波徳島に移る。八年五月厳有院家綱の薨去を聞き鋏を以て自殺す。  年五十。〔二一〕 堀伊賀守  又伊豆守と称す。利堅。天保二年八月目付となり、六年九月仙洞附  となる。七年十一月大阪町奉行に任ず。十二年六月普請奉行となり、  十月作事奉行となる。弘化二年五月三百石加増、大目付となる。安  政五年二月留守居に転じ、文久二年七月隠居す。  〔五一、五八、六六〕 本多為助  大坂御定番遠藤但馬守組与力なり。大塩の乱に当り坂本鉉之助と共  に出で、鎮定の任に当り功を以て御譜代を仰付られ、又金五十両を  賜はる。〔五八、六〇、六一〕

 
  


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