坂本鉉之助
大阪玉造口与力。名は俊貞、字は叔幹、鼎斎また咬菜軒と号し、荻野
流砲術の達人にて、大塩乱の際には同心支配たり。大塩とは交友の誼
ありながら兵を率ゐて大塩の徒鎮圧に向ひ功あり。万延元年九月死。
年七十。大阪高津大倫寺に葬る。著書咬菜菜秘記あり。
〔二八、二九、五五、五八、五九、六〇、六一、七〇〕
酒勾清兵衛
出石仙石氏の臣にして本高八百石を知行す。荒木玄蕃等と共に仙石左
京の為に囚禁せられしことあり、遂にこの一件の為に知行召上げらる。
時に年六十四。〔一四、一五〕
佐竹義堅
佐竹義都の長男。元醸五年生る。享保五年十一月封を嗣ぎ、十二月従
五位下里前守に叙任し、十七年五月義琴の養子となり修理大夫に改む。
十二舟従四位下に昇る。寛保二年正月父に先つて死す。年五十一。
〔一二〕
佐竹義都
義ゥの子。幼字所化丸。寛文五年生る。元禄元年三月御小性となり、
十四年宗家右京大夫義処の封一万石を分与せらる。寛永六年三月従五
位下式部少輔に叙任す。享保五年十一月致任し、十年二月死す。年六
十一。〔一二〕
佐竹義盛
義隆の子。寛永十四年生る。承応三年十二月従四位下左京大夫に叙任
し、寛文九年十二月侍従に進み、十二年二月遺領を嗣ぐ。元禄十一年
少将に進み、十四年封地の内二高石を弟義長に、一万石を甥義都に分
与す。十六年六月入国の途病を発し横手駅に死す。年六十七。〔一二〕
佐竹義処
実は岩城貞隆の嫡男。元和六年貞隆の後を嗣ぎ、寛永元年十二月従五
位下修理太夫に叙任す。三年四月佐竹義宣嫡子義通を廃嫡するに及び、
入りて其嗣となる。十年二月遺領を嗣ぐ。寛文六年十二月少将に進み、
十一年十二月久保田に死す。年六十三。〔一二〕
佐竹義岑
義長が長男。元禄三年生る。正徳五年義格が終に臨んで養子となり、
九月遺領を継ぎ、十二月従四位下侍従に叙任し、右京大夫を兼ぬ。延
享元年十二月少将に進み、寛延二年八月久保田に於て死す。年六十。
〔一二〕
佐竹義苗
義処の子。寛文十二年生る。貞享元年十二月従四位下修理大夫に叙任
す。元禄十二年六月父に先つて死す。年二十九。〔一二〕
佐竹義長
義隆の四男。明暦元年生る。寛文十年十二月従五位下左近将監に叙任
し、延宝四年十二月壱岐守に改む。元禄十四年兄義処の封の内二万石
を分ち与へらる。享保三年九月致仕し、元文五年十二月死す。年八十
六。〔一二〕
佐竹義宣
義重の子。右京大夫と称す。天正十八年正月水戸城を守る。尋いで父
に代りて国政を執る。又秀吉に通じて忍城攻撃に参加し、五月兵を率
ゐて小田原に至り秀吉に謁す。戦後常陸一国を与へられ、徳川、毛利、
上杉、前田、島津と併せて天下の六大姓といはる。秀吉死するや、石
田三成に通じ密に図るところあり、関原役後秋田二十万石に移さる。
大阪の役東軍に従ひ功あり。寛永十年正月死。年六十四。〔一二〕
佐竹義格
義処の子。元禄七年生る。十三年十一月嫡子となり、十六年八月遣領
を嗣ぐ。宝永五年十二月従四位下侍従に叙任し大膳大夫をかぬ。正徳
五年七月久保田に死す。年二十二。〔一二〕
佐藤一斎
名は坦、字は大道、通称は捨蔵、一斎また愛日楼、老吾軒等と号す。
安永元年十月生る。其家代々岩村侯松平氏の家老職たり。長ずるに及
び騎射刀槍の術を習ひ又兵学を学ぶ。寛政二年士籍に上り後ち之を脱
して京阪に出で、中井竹山皆川淇園に学び五年江戸に出で林家の門に
入り、享和二年其の塾長となる。天保十二年幕府の儒官となり、俸二
百苞十五口を賜ひ昌平黌官舎に住せしめらる。是より及門の士頗る多
し。嘉永二年更に俸米百苞を加ふ。安政六年九月死。年八十八、江戸
麻布深広寺に葬る。著書十余種、何れも世に行はる。〔四一、七五〕
篠崎三島
通称は長兵衛、名は応道、字は安道、三島また郁州と称す。父の代に
大阪に出で商を業とし、三島に至り金主貨殖を計り多くの凄を購求す。
又屡主財を散じて人の急を救ひ家産やゝ傾く。四十の年蒋じて儲とな
り雌を下して諸生を教授す。来り学ぶもの頗る多し。人となり潤達に
して事を虞する明快、人と語るに廻避するところなし。肥後の薮孤山、
肥前の松江某等皆之を解す。文化十年十月死。年七十七。著書碧紗籠
集、革彙、論孟意放言等あり。〔二七〕
篠崎小竹
名は弼、字は承弼、小竹また畏堂と号す。実は豊後の人加藤吉翁の男。
幼にして父に従ひ大阪に寓し、九歳にして篠崎三島に従ひ遂に養はれ
て其嗣となる。初め専ら家学を修め後四方に周遊し山水人物を訪ひ、
遂に家を脱し江戸に出で古賀精里に従ひ学ぶこと半年、帰つて父に代
つて諸生に教授し最も信頼を受く。其書詩甚だ労せずと雖も自ら珠玉
をなす。時人皆之を称す。嘉永四年五月死。年七十一。〔二七〕
柴田勘兵衛
大坂玉造口与力。佐分利流の槍術に達し、大塩平八郎の師範たり。又
平八郎の乱を平ぐるに功あり。〔二七、二八、二九、六○、六一〕
柴田外記
名は朝意、初め中務、また内蔵介と称す。実は佐竹親栄の子。柴田但
馬守宗朝の子となる。父に嗣ぎて伊達氏に仕へ、登米郡米谷を食む。
寛文中富塚重信と同じく家老に任ぜられ三千石を賜はる。後奸臣原田
甲斐と争ひ訟廷に於て甲斐と闘ひ傷を負ひて死す。時に寛文十一年三
月。年六十三。子中務職を襲ふて国老となる。〔一二〕
渋川伴五郎
其の祖伴五郎名は義方、関口氏業に従ひ学び、後一家をなし、渋川流
柔術の祖となる。伴五郎は即ち其の後なり。〔一三〕
島田忠政
初名利木、後守政また忠故に改む。島田幽也利正の四男。寛永十七年
三月御小性組番士に列し、十九年十月父の采地武蔵入間郡の内にて千
石を分ち賜はり、明暦二年三月御徒の頭に進み、万治元年九月御目付
となる。寛文二年五月長崎奉行に進み、七年閏二月江戸町奉行となり、
廩米千俵を加増せられ、十二月従五位下出雲守となる。元禄八年十二
月致仕し、十二年七月死。年七十六。法名幽山。〔一二〕
庄司義左衛門
大阪東組同心。河内丹北郡東瓜破村百姓助右衛門の子。文政四年摂津
住吉郡堀村百姓久右衛門事茂左衛門の子となり、同年九月東組同心庄
司百蔵の養子となる。七年廿七歳にして大塩平八郎の槍術の門人とな
り、天保二年より読書を受く。大塩兵乱に与みし武具調達等に尽力し、
後捕へられ牢獄中に死す。〔三四、四八、六三〕
白井孝右衛門
また幸右衛門とも記す。大阪守口町にて百姓と質屋とを営めり。文政
八年、三十七歳にして大塩の門に入り、其の為に勝手向を賄ひ、動乱
の際大塩の為に最も力を尽し、後礫刑に処せらる。
〔三四、四四、四八、六三〕
菅沼織部正
名は定志。三河新城七千石を知行す。天保四年三月より大阪東小屋大
番頭となる。〔五八、六二〕
杉原官兵衛
出石仙石氏の臣。年寄となる。左京の一件に連座し重追放に処せらる。
時に年六十八。〔一七〕
瀬田済之助
大阪東組与力。豊田貢事件に大塩平八郎と同役たりし瀬田藤四郎の養
子にして大塩の門に入り、挙兵に参与す。後河内高安郡恩知村の山中
に自縊す。時に年二十五ばかり。〔四八、五三、五七、六三〕
仙石権兵衛
名は秀久、天文二十年美濃国に生る。少年より秀吉に仕へ武勇の名あ
り。天正十一年より淡路国を領し、七月従五位下越前守に叙任し、十
三年讃岐国に移封す。後故あり封を没せられ小田原役の際免されて先
陣の目付となり、功を以て信濃小諸五万石を与へらる。慶長庚子役徳
川氏に属し、宇都宮に従ひ、又上田城を攻めて功あり。十九年五月死
す。年六十四。〔一四〕
仙右左京
出石仙石氏の家臣。千五百石を知行し家老となる。威福を擅にし幼主
を挟みて遂に主家を奪はんとし謀計露顕して鈴森に刑せらる。時に年
四十九。〔一三、一四、一七、一八〕
仙石道之進
出石城主仙石越前守政美の子。名は久利。文政三年二月廿三日生る。
父の後を嗣ぎ出石五万八千八十余石を領せしが、家臣左京の件により、
天保八年十二月二万八千八十余石を削らる。
〔一三、一四、一八、一九〕
仙石靭負
名は政房、実は仙石勘解由久次の子。延宝元年信州上田に生る。宝永
五年七月宗家政明の養子となり、十二月従五位下信濃守に叙任しす。
享保二年八月遺領を継ぐ。七年十一月奏者番となり、十九年六月寺社
奉行を兼ぬ。二十年四月死す。年六十三。〔一四〕
|