Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.1.18

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『近世日本国民史 文政天保時代』

人物概覧 (た−の)

徳富猪一郎(1863-1957)著 民友社 1928

◇禁転載◇

人物概覧 (た−の)

た つ と な に の

高井山城守  名は実徳。文政三年十一月大阪東町奉行となる。天保元年八月病に  より江戸参府を許され、十一月願により職を免ぜらる。  〔三一、三二、三三、三四、三八、四三、七三〕 高橋九右衛門  河内茨田郡門真三番村百姓。天保元年白井孝右衛門の紹介にて大塩  の門に入り、天保五年頃より大塩の勝手向の世話をなせり。挙兵の  際一たび平八郎等と逃れ淀川に泛びしが、柏岡源右衛門と天満橋北  詰に上陸し、高野山真福院に隠れ、間もなく出でゝ支配役場に自首  し、後罪せらる。〔六三〕 竹上万太郎  弓奉行上田五兵衛組同心、文化二年十七歳の時兄熊三郎病気につき、  其養子となりて職を嗣ぎ、文化十一年の頃大塩の門に入れりといふ。  拳兵の際は同心小頭たり。反忠をなせしが反忠とならず却りて引廻  の上磔を申渡され、天保八年九月十八日鳶田に於て処刑せらる。  〔五三〕 伊達綱村  綱宗の子。初名綱基、万治二年生る。三年八月綱宗逼塞せしめらるゝ  に及び封を襲しめらる。寛文九年十二月元服して将軍家綱の諱字を  賜ひ従四位下少将に叙任し、陸奥守と称す。十一年原田甲斐の事件  ありとが弱年の故を以て封を収められず。元禄八年十二月中将に進  み、従四位上に上る。享保四年六月病を以て死す。年六十一。仙台  の大年寺に葬る。〔一二〕 伊達政宗  幼字は梵天、輝宗の子。世々陸奥伊達郡を有す。天正十二年十八歳  にして父り譲りを受く。十三年二本松城主畠山義継を殺し、十六年  芦名家を亡ぼし、会津七郡を併領し、黒川城に移り居る。十八年豊  臣秀吉に謁見し、十九年三月上洛して侍従越前守となり羽柴の姓を  賜ふ。此年始めて岩手沢城に移る。文禄征韓の役功あり。秀次罪を  秀吉に得るに及び嫌疑を被り、家康によりて救解を得、これより心  を傾けて徳川氏に尽す。慶長庚子の役上杉氏と戦ひ白石城を取る。  この年仙台城を築く。大阪役また功あり。戦後正四位下参議に陞り、  寛永三年八月従三位権中納言となる。十三年五月死。年七十二。  〔一二〕 伊達宗勝  政宗の子。元和七年仙台に生る。正保二年十二月従五位下兵部少輔  に叙任し、後兵部大輔に改む。万治三年綱逼塞せしめられ亀千代網  村立つに及び、田村宗良と共に国政執行を命ぜられ、磐井郡三万石  を分ち賜はる。寛文十一年四月原田甲斐の事件に坐し幕府の咎を受  け松平豊昌に召し預けらる。〔一二、一五〕 田中従吾軒  名は参。下総佐倉藩士、小長井小舟の兄なり。著書随園文鈔あり。  〔五五〕 筒井政憲  肥前守、伊賀守、又紀伊守と称す。文化十二年九月目付となり、十  四年七月長崎奉行に転ず。文政四年正月町奉行に任じ良吏の称あり。  天保十一年五百石を加増せらる。十二年正月西丸留守居学問所用向  教授となる。十三年三月水野越前守と意協はずして罷めらる。外国  の事起るに及び長崎に赴き露国使節に応接す。嘉永七年七月大目付  海防掛りとなり、阿部伊勢守の顧問に備はり参画するところ多し。  安政四年正月鎗奉行となる。〔一三、一四、一八、一九〕 土井利位  大炊頭と称す。下総古河城主。八万石を領す。利広の嗣。天保五年  四月大阪城代となり、八年五月京都所司代に移る。九年西丸老中と  なり、十年十二月老中となる。十五年十月辞す。  〔五八、六〇、六二、六六、六七〕 土井能登守  名は利忠。越前大野藩主。四万石を領す。字は隆卿、幼字錦橘。始  祖利房七世の孫。文化八年四月生る。文政元年利器の嗣となる。同  十年十二月従五位下に叙し。能登守に任ぜられ、十一年正月加冠す。  天保元年二月大阪加番を命ぜらる。この間朝川善庵を招聘し、士民  と共に其講義を聴きよく藩政を整ふ。八年加番の任満ち江戸に帰る。  同十四年七月新たに学校を設け士民を教授し後之を明倫館と名づく。  ついで蘭学館を起し、蘭学及医学を稽古せしむ。又巨船大野丸を作  りて北海に貿易し、大に利を挙ぐ。後また大阪加番たること一二回、  明治元年十二月死。年五十八。明治四十二年従三位を贈らる。  〔五八、六二〕 徳川家慶  幼名敏二郎。家斉の第四子。母は押田敏勝の女。寛政五年五月生る。  九年元服して従二位権大納言に任叙し、文化十三年四月右大将を兼ぬ。  文政五年三月正二位、十年三月従一位に進み、天保八年家斉の譲を受  け家を嗣ぎ、九月征夷大将軍に任じ内大臣を兼ぬ。在職中水野忠邦を  任用し弊政を改むること多し。嘉永六年七月二十二日薨ず。年六十一。  慎徳院と謚す。勅して正一位太政大臣を贈らる。〔一〕 永井 直興  播津高槻城主。直進の嗣。三万六千五百三十石を領す。〔六二〕 永瀬七三郎  大阪惣年寄、大塩乱の際今井克復等と同じく火消人足を従へ附近警戒  の任に当れり。〔六六〕 西村利三郎  河内志紀郡弓削村百姓。一名七右衛門。大塩平八郎の門に入る。  〔六三〕 野田笛浦  丹後田辺の儒者。牧野氏の臣。名は逸、字は子明、通稀希一。十三歳  にして江戸に出て古賀精里に従ひて学ぶ。家貧にして刻苦精励せしが、  後藩主より学資を給せらる。文政九年清国の商船駿河清水港に漂著す  るや、古賀庵の薦を受け、行いて之と筆談し、清客江芸閣、朱柳橋  等をして敬服せしむ。唱和の詩泰得船筆語にあり。この為大に名声を  博し、遂に擢んでられて藩の執政となる。治績大に挙る。晩年屡々骸  骨を乞へども許されず。安政六年七月病んで死す。年六十一。其詩文  は海紅園小稿、嘉永二十五家絶句等にあり。〔五五〕

 
  


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