海賊三十
余人を捕
ふ
其の廉直
贈遺を斥
く
高井実徳
大阪町奉
行となる
大阪富商
某の身代
限処分事
件
富商の身
代限り願
水野忠成
意見
水野の命
を翻さん
とす
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彼が最初の手柄として、人に知られたのは、文化八年、十九歳の時、定町
廻役に勤仕中、海賊三十余人を捕へたことだ。伝説によれば、当時大阪市
中、盗難多く人心恟々、両組の与力同心、徒らに奔命に労するのみであつ
た。時に彼火防町廻役であつたが、未だ本役でなく、職司至て軽かつた。
然も彼は責任観念極めて強く、身を挺して、其憂を除かんとし、遂ひに此
れが海賊の所業であることを偵知し、有馬家留守居神道某と称する者を捕
へた。此者実は妙見剛右衛門、又た一に親船覚右衛門と云ふ海賊の巨頭で
あつた。彼等は多年瀬戸内海にありて、掠奪を逞くしたが、近頃捜査厳な
る為め、般を商舶に擬装し、近海に漂泊し、市中を荒らした。船中余党三
十幾人、何れも縛に就き、市中も始めて安堵した。此に於て大塩平八郎の
名は、大阪市民の間に聞え出した。〔大塩後素記事〕
彼が常供―与力同心公用派出の際、随従して賤役を取るもの―の傘工某が
にく
高利貸を倣すを嫉んで、自から百両の金を借り、其の督促を待つて、之を
懲戒したる話や、紀州、岸和田二藩の境界争議に就て、岸和田藩を勝訴た
らしめたる事や、若しくは滞獄を決するの際、暮夜原告より贈りたる菓子
函を、翌朝庁に上り、同僚の面前に開らき、其の中より黄白を出し、諸君
之を好む、是れ訴訟久しく決せざる所以なりと云うたとの説の如き、果し
て信ず可き乎、否乎を詳にしない。されど彼が既定の収入以外、濫りに他
の贈遺を受けざる一事は、左の一書によりても分明だ。
此肴を、播磨屋利八と申ものより、此方留守中持参さし置帰候。不埒
之事に候へ共不弁故之儀と被推候間、丁内へさし戻し遣候。今後心得
違無之様申渡し置可申、此度者内分にて、右様取計遣し候事。
大塩平八郎
御地通四丁目年寄へ
此れは年月日なければ、何時と云ふことは分らぬが、然も彼が廉吏であつ
たことは、之を見ても、知るに余りありだ。
彼の名は歳月と共に、漸く高く、彼の門人も漸次に多くなるの際、文政三
年十一月十五日、彼歳二十八の時に於て、偶然にも其の知己たる可き、高
井山城守実徳、山田町奉行より大阪東町奉行に転任し来つた。高井は六十
余の老人にて、其の栄進は頗る晩れたが、人物は温厚忠良にして、君子風
み ふる
であり、人を鑑るの識ありて、能く大塩を抜擢して、其の全力を揮はしめ
た。
当時彼は目安改吟味役であり、偶ま天満市中の富商其の身代限処分事件が
あつた。彼が此の事件に対し、如何に身を挺して、其の所志を達したるか
は、左記の文を読めば、自から分明だ。
貞(玉造口与力坂本鉉之助名俊貞)が初めて大塩へ柴田(勘兵衛)と
同道にて参候処(文政四年四月頃、大塩二十九歳の時)座に付て、未
だ時候の挨拶も済まぬ先に、今日は能く御出被下、殊に寄ると私も切
腹を致して、今日は御目に懸れぬ所にて、仕合に切腹にも不及、御来
訪を相待候と申口上也。勘兵衛も貞も驚入、夫は如何様の仔細に候哉
と尋候処、平八郎申には、天満市中の町人某と申者、身代衰微致、外
より貸銀滞之目安を付られ、此者家は先代相当の富商にて、公義へ御
用金を差出候家に候へば、借財返済方御定御切金に被仰付候筈之処、
此者願には近来殊之外、不仕合にて、難渋仕、借財夥敷相嵩み候。此
度之訴訟仮令切金に被仰付被下候共、此口相済候はゞ、忽又訴訟仕り
候借財之口又も有之、追々及訴訟候上は、悉く切金に被仰付被下候て
も、其切金丈けの員数迚も返弁仕候義出来不申候間、此後度々御苦労
罷成候半よりは、何卒此度先訴之者へ身代限を被仰付被下候様にと願
出候に付、其趣江戸表へ伺に相成候処、出羽守殿(水野忠威)差図は、
先代御用金をも差出候者之子孫、右様及難渋候段、不便之事に候得者、
右用金御下げ被下候て宜敷候へ共、其者一人にも限不申、左様の口追々
候ては、当時悉く御下げ金と申御都合にも相成兼候間、乍不便願之通
身代限りと可申渡、御下知有之候。〔坂本鉉之助著 咬菜秘記〕
大塩平八郎は、乃ち当時威権赫々たる、幕府の閣老水野出羽守の下知を翻
へさんとして、其身を挺して、奔走したのだ。
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