Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.10.2

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「浮世の有様 巻之六」

◇禁転載◇

摂州川辺郡豊島郡能勢郡変事略記 その9

 








 
能勢郡騒動の始末区々の噂なりしが、これを委しく聞定むるに、其起りたる始といへるは、昨年来の饑饉に困つて、世問と同じく能勢辺も小前(こまえ)の者共大に困窮し、当年は豊作の様子にはあれ共、これを取納むる迄の喰続き六かしき事なる故、山田村とやらん何村とやらん、一村打寄て評定をなせし上にて、其村に何某とやらん言ひて、至つて富める家あり。

金銀・田畑沢山に所持し、昨年来の饑饉にて諸人大いに困窮をなせ共、己れは利を貪んとて米は申に及ばず、雑穀の類に至るまで、仰山に積み貯へぬる者有り。此者を頼んで作物取納むるまでの米を借り受けて、何れも飢を凌ぐべしと、何れも一統に申合せ、中にてもよく口利ける者両三人も行きて之を頼み、「秋作取いれし上は、相違なく速に返すべし」と、言ひぬれど、之を少しも聞入るゝ事なきにぞ、

詮方なくて引取しかば、此度は五六人も連立ち行きて、種々詞を尽し頭を下げて頼みぬれ共、一向に 聞入れざれば、此者共も引取りぬ。夫より一村連立ちて行き、種々に嘆きぬれ ども、気強くこれを取敢ざる故、何れも大いに怒り、若き者共已に此家を打毀たんとする勢なれ共、老分の者共之を制し、事なく此家を立出でて、直に山田村の内に住居する、何某やらんいへる剣術の師範せる者の方へ立寄り、

「然々の事にてしか頼みぬれ共、少しも頓著なさゞる故、若き者共は大いに怒り、彼家を打毀たんと言ひぬれ共、さ有る時は大変に及びぬれば、何卒先生の御計ひを以て貸しくれらる様なし給はるべし」とて、一同頼みぬるにぞ、

之を捨置き難く、「各々方の一統に頼まれしを用ひざる者にして、我等が申しぬる事を聞入れ申べく理なし。され共之を否めるも不実に当りぬれば、一応掛合ひて見るべし」とて、夫より直に彼家に到り、詞を尽して頼みぬれ共、露計りも之を聞入ざる故に、之も詮方なくしてすご/\引取りて、其由を言聞かせ、

「最早致方なし。所詮我々が手には逢ひ難ければ、各々の存寄致されよ。此上は我は知らず」〔と脱カ〕いひしにぞ、 何れも此人の返事を聞かんとて、此家に相待居りしが、此由をきくと其儘、「年若き者共は此の如くならんと思ひし事よ、もはや堪忍なり難し。彼家を打毀ち存分の腹愈せせん」と言罵りしかば、此剣術者の家に前以てより滞留せる二人の浪人者有りしが、之を聞きて、

「さ思へるも尤も至極の事なり。我等も共々に加勢すべし」とて之をけしかけ、燃ゆる火に油を注ぎぬる勢ひなりしかば、何れも弥々其臍を固めし故、是非なくも老分の者迄同意せしといふ。

 
 










剣術者も此の如き事に掛り合ひ、逃れ難き場所に及びしと見へてこれに同心す。

此者の弟子大坂に六人あり。大助はその高弟なりといふ。此故に六月晦日、親源六大病なれば用事有りとて、急使を以て招に来りしにぞ、翌七月朔日早朝、宿を立出でて彼地へ到る。幸の折柄なれば、今井・研屋 研屋は佐藤四郎右衛門とて、因州鳥取の浪人なりといふ。 抔に妙見参りを勧めて同伴し、二日よりして騒動に及べる様になりて、遂に鉄炮にて打殺されしといふ。

    今井藤蔵は書家にして算術を専らに教ゆ。其子上町同心へ養子に遣せし有り。**1

    又高麗橋筋とやらんに、松田とやらん松岡とやらん言ひて、算術の師範あり。此者の子も亦上町の同心何某とやらん云へる者の養子となると云ふ。然るに今度今井は、同心の方へ遣し置きたる忰をも、妙見へ召連るべしとてこれを召寄せ、同道せしといふ。

    然るに此者二日の騒動せる様を見ると、其儘密に逃帰り、養家に隠れ居りしに、五日に至り何れも鉄炮にて打取られ、従類多く召捕られしが、今井が子の同心の養子になれるをも召捕へんとて、上町へ到りしが、算術者の子なる由をいへるにぞ、人違にて高麗橋なる算術者の子、始めに召捕られ大に難義せしが、漸々と人違なることの相分りしかは、後に今井が子を召捕られしといふ。両人共揚り屋へ入れられしとの噂なり。一人は大なる災難といふべし。

 


管理人註
**1 大助の甥、玉造同心 元橋岩次郎のことか。
   坂本鉉之助「咬菜秘記」その47


「摂州川辺郡豊島郡能勢郡変事略記」 その8/その10
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